【中文提要】琉球国王是在前国王死后立刻即位的。琉球国最后一位国王尚泰是在道光17(1827)年9月17日前国王尚育去世后,第二年(1828年)5月9日举行即位仪式当上国王的。尚泰以即位仪式为契机,称自己为“琉球国王”“琉球国王中山王”,接着以国内的武士家族为首,近世日本(幕府·萨摩)的首领都以王或相当于王的称号作为称呼。但是,与中国清朝的关系是尚泰长期以来一直以“琉球国中山王世子”来称呼自己,直到1866年(同治5年)被册封为止自称为王是不可能的。册封后的尚泰国王向清朝皇帝和闽浙总督递交的国书中都称自己为琉球国中山王。这样琉球国王有两次即位的机会,即在琉球国内以及和近世日本的关系中的即位和作为中国清朝“属国”的即位。
琉球国内如何理解这两次即位,这是笔者想探讨的问题,本文通过分析即位时实施的诸多仪式,希望能从中找到一些线索。
【关键词】即位;册封;礼仪;祝文
【日文要旨】琉球国王は前王の死去后すぐ王位を継承する。最后の国王となった尚泰の场合、道光17(1827)年 9月 17日に前王尚育が亡くなると、翌年5月9日に即位式が执り行なわれた。即位式を契机に尚泰は「琉球国王」「琉球国王中山王」を自称し、また国内の士族をはじめ、近世日本(幕府·萨摩)の者からも同様に、王や王に相当する称号(上様など)と呼ばれていた。しかし、清朝中国との关系では、尚泰はあくまで「琉球国中山王世子」であり、册封される同治5(1866)年まで王の自称は不可能だった。册封后になって尚泰は皇帝や闽浙総督といった清朝向けの书状に「琉球国中山王」と自称している。このように琉球国王は、琉球国内および近世日本との关系上の即位と、清朝中国の「属国」としての即位という二度の机会があったのである。
この二度の即位の机会を琉球国内ではどのように理解していたのかを明らかにするのが着者の关心事项である。本稿では、即位に际して実施された诸仪式を分析し、この问题を考えてみたい。
【キーワード】即位;册封;仪礼;祝文
はじめに
万暦三七年(一六〇九)年の岛津家による琉球侵略以降の王位継承の流れは、豊见山和行氏の次の见解が的确であろう。
国王が死去すると、次期王と目される人物を王族や王府高官らが推戴し、萨摩藩主へその许可を要请する。萨摩藩はそれを幕府へ具申すると、将军は(略)萨摩藩主へ委任している旨を回答する。それを承けて萨摩藩は琉球への王位の承认を通达する。そして、时期を见て新王は萨摩藩主へ臣従の起请文を提出させられ、新王継ぎ目の谢恩として江戸幕府へ谢恩使を派遣する(江戸上り)。
他方、中国との关系では、萨摩藩からの回答后、中国皇帝へ册封の要请を行い、册封使を琉球へ迎え入れて、王号の授与式(册封仪礼)を大々的に挙行する。その后、册封への谢恩使を派遣する。
このように、近世には日本侧(萨摩藩·幕府)の承认を得た「即位」と、明清中国の承认を得た「册封」を経て王位継承は完成していた。琉球の王位は清朝中国と近世日本双方の影响を受けるという「复合的性格」を持っていたといえよう。近世日本と明清中国という异なる権威に基づく二度の王位承认は、琉球国内ではいかなる整合性をもって理解されていたのだろうか。本稿の问题关心はここにある。
王位継承に关する研究は多く蓄积されており、その一例を挙げると、明清交替期や琉球王国末期など东アジアの激动期における琉球を取り巻く国际状况から册封を追求する西里喜行氏の诸研究や、清朝侧が琉球への册封を重视していたと指摘することで、琉球と明清中国との关系の强さを浮き立たせる陈捷先氏の诸研究、册封を琉球国内の问题に引きつけ首里王府の支配构造を岛津氏との关わりのなかで论じる金城正笃氏の分析などがある。
真栄平房昭氏の「琉球国王の册封仪礼について」は、琉球と明清中国との外交关系上、册封は形式的な仪礼であり、首里王府にとっての重要度は低かったする通说を批判的に分析した好论である。真栄平氏は、谕祭式·册封式や册封七宴とよばれる诸宴、その他、衣裳や行列などを検讨し、册封が清朝との外交关系を维持するための方法だっただけでなく、国王権威を强化するものであったことを明らかにした。ほかにも、册封が琉球にとって近世日本との关系に有効に机能していたとする陈大端氏の研究も重要だが、册封に日本侧の影响がまったくなかったとは言えず、むしろ岛津家の关与を认めつつ册封诸仪礼が展开していったことも踏まえておかなければならない。
このように王位継承に关する研究は深化しているが、いまだ分析が求められるのは、即位と册封の关系である。くりかえすが、近世期には、即位は近世日本の権威に依拠した王位継承、册封は明清中国の権威に基づいた王位継承という色彩が强まるようにみえるが、両者は琉球王権にとってまったく别个のものとして机能していたのか、即位·册封を王位継承の诸段阶と捉えるべきなのかを考える必要がある。それにより复合的とされる琉球国王の即位过程をより実情に近いかたちで理解できるものと思われる。ひいては、首里王府が近世日本と明清中国という别々の権威をいかに区分けし、さらに内在化(内面化)していたかを明らかにできるであろう。
本稿の构成は次の通りとした。第一章では、即位·册封双方の仪礼の意义を明らかにするため、即位式·册封式のみならず、それぞれの前后に行われた诸仪式に着目する。册封に关してはすでに拙稿にて论じたが、即位仪礼も含めて再考してみたい。なお、清朝中国や近世日本との政治外交关系ではなく琉球国内における仪礼の意义を考察するため、本稿では琉球人のみが参加·参列した仪式を取り扱う。第二章では、诸仪式で使用された祝文に着目する。祝文から、即位仪礼と册封仪礼との关连性を考えてみたい。
1.即位と册封
(1)即位仪礼
尚育と尚泰の即位仪礼を分析した拙稿では、即位式のみではなく即位式前后の仪式も视野に入れるべきと主张したが、同様の指摘は册封仪礼にも当てはまる。册封仪礼も清朝皇帝の勅使から册封の诏勅を受け取る册封式だけで完结していたとみなせず、册封式前后の诸仪式も考える必要がある。とくに、册封使が关わる仪式ではなく、琉球人のみで行った仪式に注目することで、琉球にとっての册封の意味をより焦点的に考えることができるだろう。そこで本稿では、道光八年(一八二八)の尚育王の即位仪礼と道光一八年(一八三八)の册封仪礼、道光二八年(一八四八)の尚泰王の即位仪礼および同治五年(一八六六)の册封仪礼を事例として、そのなかで琉球人のみで执り行われた仪式を取り上げて即位仪礼·册封仪礼の构造を探っていきたい。
分析する仪礼である尚育王の即位仪礼を[表1]、尚泰王の即位仪礼を[表3]とした。以下、この表をもとに検讨していきたい。
尚育と尚泰とでは実施された仪式や开催顺はやや异なるが、このうち、琉球人のみが参列(参加)した仪式のみに着目すると、即位式の前后には次の仪式が催されたとみることができる。
A 王位継承の许可に关する仪式
B 即位式前日の円覚寺·天王寺への参拝仪式
C 即位式
D 寺社·御岳などへの参拝仪式
A 王位継承の许可に关する仪式
まずは、王位継承の许可に关する仪式が行われる。これには、王位継承の许可に対する祝仪と鹿児岛から王位継承许可状を持ち帰った使者をねぎらう仪式【育即1/泰即1】と、许可状披露の仪式【育即2/泰即2】である。すでに别稿で论じたため、ここでは仪式の详细は省くが、これらは王位継承の承认をとり计らった岛津家家老からの书状に关系する仪式であり、王位継承の承认を得られたことに対する祝仪仪式という性格が强い。近世日本からの许可がないと即位できない状况を象征的に示すのが、この二つの仪式であった。
B 即位式前日の円覚寺·天王寺への参拝仪式
即位式の前日には、円覚寺·天王寺への告祭が行われた【育即3/泰即3】。この仪式では、新国王の使者をつとめる三司官が、首里城内の御书院にて祝文と仪式の次第书きを取り次ぎで国王に上覧し、奥御书院に出御した国王から告祭执行の许可を得ると、はじめに円覚寺へ赴く。円覚寺では、「神檀」のある御照堂で献香し、祝文を神檀に供えて拝礼(四ツ御拝)が捧げられている。详しくは祝文を分析する后段で述べるが、円覚寺·天王寺での告祭の意図は、先王および先王妃への即位の事前报告という目的があったといえる。
C 即位式
即位式は首里城で行われた【育即4/泰即4】。一八二八年に行われた尚育の即位式は、位阶升进者による尚育への御拝·朝之御拝(唐玻豊御规式)·下库理御规式·飨応によって构成されていた。位阶升进者の御拝は、日の出ごろ(「六ツ时」)に対象者が登城し、正殿前の上之御庭にて楽が催されるなか、正殿二阶の唐玻豊に设置された御轿椅に向かって拝礼する仪式である。対象者は五六八人であったが、「御即位御祝仪之时者御侧仕以下御下御殿御奉公人江茂御位被成下候处、此节ハ御先例与者相替候付、右之人数御位被成下候仪、御延引被仰付候」とあるように、先例とは异なり一部の位阶升进の参列は见送られている。
位阶升进者の御拝を终えると朝之御拝(唐玻豊御规式)が行われた。四ツ时から正殿の前に焼香台や看马を置くなどの准备がはじめられ、正午(「九ツ时」)になると尚育の许可を得て、下之御庭に集合した役人などが看马につづいて顺々に上之御庭に入る。この时に読み上げられた唱拝は、
排班 排斉 跪 叩头 再叩头 三叩头 兴 班首 诣香案前 上香 再上香 三上香 复位 跪 众官皆跪 祝寿 俯伏 兴 跪 众官皆跪 叩头 再叩头 三叩头 兴 鞠躬 三舞蹈 平身 跪 众官皆跪 山呼 万歳 山呼 万歳 再山呼 万々歳 俯伏 兴 复位 跪 叩头 再叩头 三叩头 兴 平身 礼毕
というものである。唱拝によると式次第は、唐玻豊へ出御した尚育に対して参列者全员が一跪三叩头し、献香のあと祝文が読み上げられ、再度一跪三叩头が行われ、万歳三唱のあとさらに一跪三叩头を行うというものである。
上之御庭での一连の仪式を终えると王子·按司は下库理に着座、三司官以下の者が顺々に下库理(正殿一阶)で尚育に拝礼した。この下库理での拝礼につづいて、王子众·按司众以下、诸间切·诸岛まで参列者の役人などからの献上品(御花·御酒)が纳められると、下库理に丸柜などの饰り(「三ツ御餝」)や御花·御酒などの饰り(「美御揃」)が准备され、尚育が出御し下库理御规式がはじまる。下库理御规式とは、尚育から役人などへの酒·茶の下赐と役人から尚育への拝礼によって构成されている。下库理御规式のあと、尚育は御书院に移动し食事をしたのち、役人に料理を振る舞う。食事を终えた役人らは料理などの下赐に対する谢礼と暇乞いを取り次ぎで述べ、首里城をあとにした。
他方、一八四八年の尚泰王の即位式は、尚泰の中城御殿から首里城への移徙からはじまった。あらかじめ中城御殿に集まった王子·按司·三司官といった王府高官などを引き连れ、路次楽を伴いながら轿に乗った尚泰が首里城正殿まで行列で向かう。首里城への入城后、即位に伴う位阶升进者の御拝·天之御拝(子之方御规式)·朝之御拝(唐玻豊御规式)·下库理御规式·飨応と続く。
即位式を比较すると、尚育の际にはなかった移徙と天之御拝の仪式が尚泰の即位式には确认される。尚育の即位で移徙がなかったのは、「迹々/御即位之时者中城御殿より御登城被游御事御座候得共、万事之御勤御名代被 仰出、当时御城江被游御座御事候间、直于御城御规式被召行度奉存候」とあるように、尚育がすでに首里城で政务を执っていたためである。天之御拝についても、「御先例与者相替」、「御即位之当日子之方御规式御取止可被游」と、前王の隠居による王位継承という先例と异なる即位であることを理由に取りやめとなっている。
D 寺社·御岳などへの参拝仪式
即位式の后日には、三ヶ寺(円覚寺·天界寺·天王寺)·崇元寺および、圣庙(久米孔子庙·首里孔子庙)への参拝、そのほかの宗教施设への使者派遣がみられた。
三ヶ寺参拝·崇元寺参拝は、先王神位などへの焼香仪式である【育即5·6/泰即5·6】。王国末期には王自身による直接参拝が常例となっていたが、尚育の场合、即位式の天之御拝と同様、前例とは异なる即位であることを理由に三ヶ寺以外の参拝は延期され、尚泰も幼年のため名代によって三ヶ寺·崇元寺参拝が実施されている。
圣庙への参拝も尚育の际は延期【育即7】、尚泰即位时には名代参拝となったが【泰即7】、本来は即位した国王が直接参拝する仪式であったと思われる。尚泰の场合、名代である三司官の国吉亲方が派遣され、唱拝に従い式が行われた。式次第は、はじめに久米村圣庙に安置されている孔子·颜子·曾子·子思·孟子の神位に対して一跪三叩头を伴う献香をしたうえで、酒が捧げられた(初献礼)。ついで国王からの祝文が読み上げられたあと、再度酒を捧げる献礼が二度行われ(亜献礼、终献礼)、最后に三跪九叩头を行っている。
尚育の时には延期とされたが、尚泰の即位时には、首里·那覇にある弁财天堂·首里観音堂·园比屋武御岳·弁ヶ岳·権现七社へ使者が派遣されており、辺戸·今帰仁·知念·玉城·伊是名岛の御岳では在地の役人·神职による祈祷が命じられた。具体的な仪式の内容は不明だが、これらの行为は「御立愿」と表现されており、「仙香」「御花」「御五水」などが供えられ、権现七社では神楽も奉纳されている。琉球各地に点在する神仏へ新国王による王位継承を报告しつつ、今后の安定した国家运営を祈愿していたのであろう。
このように即位仪礼は、王位継承の许可を祝う仪式と即位式、即位式前后の宗教施设への参拝仪式によって构成されていたといえる。萨摩藩、その背后の江戸幕府権力の影响を受けながらも、先王·先王妃の神位をはじめとして琉球国内の神仏などを组み込みながら王位継承の正当性を高めるという构造を持っていたものと思われる。
(2)册封仪礼
一方、册封仪礼の前后にも关连する仪式が执り行われた。尚育の册封仪礼を[表2]、尚泰の册封仪礼を[表4]とまとめたので、この表をもとに考えていきたい。即位仪礼と同じように仪式をおおきく分けると次のようになる。
a 册封式前の寺院参拝仪式
b 册封朝贺式
c 寺社·御岳などへの参拝仪式
a 册封式前の寺院参拝仪式
册封式の前日には、円覚寺·天王寺への告祭があった【育册1/泰册1】。尚育册封の场合、「册封御立愿」について「三司官御使を以円覚寺·天王寺御神位様江御告祭有之候」と、三司官を使者として派遣し告祭を実施したとある。尚泰册封では、使者をつとめる三司官の与那原亲方が首里城内の御书院で「告文」(祝文)を国王に上覧し、奥御书院に出御した国王から告祭执行の了承を得て円覚寺·天王寺の顺に赴き告祭を行い、告祭が终わると再度登城して国王に経纬を报告するという次第であった。册封式の前日に行う円覚寺·天王寺への告祭は、両寺院に安置される先王と先王妃の神位に対して册封を报告するという性格の仪式であったといえる。
时系列は逆行するが、尚泰の事例では、谕祭式の前日に円覚寺に安置されている尚育神位への使者派遣もみられた。谕祭は崇元寺で行われたが、円覚寺でもあらかじめ谕祭の报告を実施したのであろう。
b 册封朝贺式
册封式の后日には朝贺式が行われた。尚育册封の朝贺式は、册封に伴う位阶升进者による尚育への御拝·天之御拝(子之方御规式)·朝之御拝(唐玻豊御规式)·下库理御规式·飨応があった。
はじめに位阶升进者による尚育への御拝があり、三司官以下の参列者が「下之御庭」から「前之御庭」に移动すると、尚育が「玉御冠·御装束」という出で立ちで登场する。北殿前の香炉台(「香案」)近くに设置された座敷に尚育が着座すると天之御拝(子之方御规式)が进められる。
排班 排済 跪 众官皆跪 叩头 再叩头 三叩头 兴 请诣香案前 上香 再上香 三上香 复位 跪 众官皆跪 告天祝寿 俯伏 兴 跪 众官皆跪 叩头 再叩头 三叩头 兴 鞠躬 三舞蹈 平身 跪 众官皆跪 山呼万歳 山呼万歳 再山呼万々歳 俯伏 兴 跪 众官皆跪 叩头 再叩头 三叩头 兴 平身 礼毕
仪式は久米村方の通事亲云上·秀才による唱拝の発声のもと、尚育による献香と久米村方惣役による祝文の読み上げ、国王以下による三跪九叩头があった。
天之御拝の次は朝之御拝が実施された。天之御拝后にいったん入御した尚育が唐玻豊に再登场すると、久米村方の通事·秀才による唱拝があり、三司官の献香と久米村方の长史による祝文の読み上げ、参列者による「両跪六叩头」が行われた。
その后の下库理御规式では「三ツ御饰」が准备され、王子から下库理までの限られた参列者に茶などが振る舞われた。それが终わると、御书院や南殿など参列者の位阶に応じた场所で食事が出され、最后に正殿二阶の大库理などで酒がまわされ、三司官の一人が「御拝つゝ」を述べている。「御拝つゝ」とは「古くは呪的ことば」であり首里城で行われた正月仪礼などにも登场する祝词とされる。とくに琉球的な仪式内容であるため绍介したい。
みほミのけやへら、けふの百かほうひよりに/御即位めしやうちやる御祝に、天のみはいちやう御立めしやうちへ、真正面の御座敷おかまれめしやうれは、おまん人しつかい御拝おかて、すてらさしむやうちへ、下库理の御座敷おちよわいめしやうれは、按司かなした、国々の按司部、三番の亲方部、さはくりさはくり、御近くおかまれめしやうちへ、おさむたいの御酒·御茶おたほいめしやうちへ、おの上ニしつかいみおほけおたほいめしやうちへ、大库理の御座敷御呼めしよわちへ、みおむ酌おたほいめしやうちへ、もゝすてすてらさしむしやうちへ、この御恩たうとさや、首里かなし天のともゝととひやくさ、おかまれめしやうるおかほう、おもひこわおすてものゝ、ともゝすいのおかほうと、よるもひるもかめねかい、しめさしむしやうちをて、ミおやたいりやきむすへたいすい、からめちミおやしめさしむしやうんたいてと、しつかいのミはい、おかましむしやいる思事。
内容は、即位にあたって尚育による天之御拝·朝之御拝などの仪式が执り行われ、また下库理·大库理で酒·茶が下赐されたことへの感谢、さらに今后の繁栄を祈念し、新しい国王へ忠诚を誓うものとなっている。
なお、册封朝贺式とは别の日に「出家御呼」という仪式も执り行われている。この仪式は「禅家·圣家·位僧」が首里城に登城し、前之御庭で御拝したのち、正殿一阶(下库理)で茶の共饮(「二ツ御饰之御规式」)を行い、南殿で食事が振る舞われ、出席の出家众が按司以下と飨食するという仪式で、册封朝贺式と仪式の构造が酷似している。
c 寺社·御岳などへの参拝仪式
册封后には国王自身による崇元寺参诣があった。この仪式は、「玉御冠纰龙纹御皮弁服黄组物御帯」を着用した国王が「御轿」に乗り、王子や按司·三司官·亲方·那覇役人などを引き连れて、路次楽を伴う行列にて崇元寺内の先王庙に安置されている先王神位へ拝礼するものである。唱拝は、
拝班 班齐 鞠躬 拝 兴 拝 兴 拝 兴 拝 兴 平身 请诣香案前 搢圭 上香 再上香 三上香 出圭 复位 跪 众官皆跪 搢圭 初献爵 亜献爵 终献爵 出圭 俯伏 兴 拝 兴 拝 兴 拝 兴 拝 兴 平身 礼毕
というもので、「御霊前」で通事亲云上の唱拝にあわせて三度の献香と三度の献杯が执り行われている。
拝礼を终えると国王は「唐御冠服」から「琉御装束」に着替え、参列者と飨応したあと再度「唐御装束」に着替えて帰城した。守礼门および崇元寺内の鸟居などに结彩·挂彩を施すことで、仪式を盛大にするという方法は、册封式と同様である。
册封使の帰国后にも复数の仪式が执り行われた。まずは三ヶ寺参诣である【育册3/泰册3】。三ヶ寺参诣は、崇元寺参诣と同様、国王が「玉御冠·唐御衣裳」にて行列·路次楽を伴い三ヶ寺(円覚寺·天王寺·天界寺)に赴き、各寺院内に置かれた庙内に安置されている神位に三度献香するという仪式であった。仪式は、
拝班 班齐 鞠躬 平身 请诣香案前 上香 再上香 三上香 拝 兴 拝 兴 拝 兴 拝 兴 平身 礼毕
という唱拝のもとで行われた。献香と四拝という比较的軽い构成である。三ヶ寺参诣とは要するに、円覚寺の先王神位、天王寺の先王妃神位、天界寺の王族神位へ册封により王爵を赐った旨を报告する仪式であったといえる。
圣庙参拝も国王の直接参拝による仪式であった【育册4/泰册4】。ここでは尚泰を事例に式次第を绍介したい。崇元寺などと同じように「玉御冠纰龙纹御皮弁服」「黄组物御帯」を着用した国王が路次楽を含む行列で首里孔子庙に赴く。首里孔子庙に到着すると、久米村方の通事亲云上による唱拝のもと仪式が展开された。
まず、孔子神位の前の香案にて三度献香し、一跪一叩头のあと、颜子·曾子·子思·孟子各神位前の香案でも同様に献香·一跪一叩头を行う。ついで孔子神位に対して献杯と一跪一叩头があり、司祝官による祝文の読み上げがあり、尚泰以下、参列者全员で一跪三叩头をする(初献礼)。ついで亜献礼·终献礼にて各神位に献杯すると、最后に尚泰以下参列者による三跪九叩头が行われた。首里孔子庙に邻接する启圣祠では、三司官の谱久山亲方が遣わされ、「启圣王叔梁公神位」「先贤颜师位」「先贤曾子位」「先贤孔子位」「先贤孟孙氏位」に対して、献香·祝文読み上げのあと、初献礼·亜献礼·终献礼が行われている。
首里孔子庙への参拝を终えると久米村孔子庙に行列にて赴く。久米村孔子庙での仪式は、三度の献香と三度の献杯のあと三跪九叩头を行うものとなっている。首里孔子庙と比べると祝文の読み上げが省略されるなど简略化された仪式であった。その后、尚泰は久米村孔子庙内の「御休息之间」にて「琉御装束」に着替えて、王子·按司·三司官·亲方·仮惣役の参列者とともに茶·菓子の飨応があり、飨応后は再度「唐御装束」に着替えて首里城まで帰城している。
参拝仪礼の最后は、闻得大君御殿への参拝であった【育册7/泰册5】。道光18年の事例では、「御八巻·蠎缎之御衣裳」をまとった尚育が行列にて闻得大君御殿へ赴いている。仪式の内容は不明だが、尚育から「御花·御酒」が进上され、飨応があったことがうかがわれる。即位仪礼では确认できない仪式ではあるが、琉球独自の宗教体系の最高位にある闻得大君へ王位継承を报告するという意义があったものと思われる。
「御膳进上」も册封仪礼の一环として位置づけられる仪式であった【育册5/泰册6】。御膳进上とは、「御即位候付、御嘉例之通、诸人より奉祝、御膳进上仕度奉愿候」と、册封による王位継承に対する家臣からの祝仪仪式である。山田浩世氏らの分析によると、祝仪は「思弟部以下、士之筑登之」までと、国王の亲族から下级の诸士まではばひろい参加者が确认され、祝仪の対象者は国王のほか「闻得大君加那志」·「佐敷按司加那志」·「太子様」とあるように、国王と国王に近い亲族であった。仪式は、高官が参加する南殿などでの酒の振る舞いと御书院での五ツ目御膳の进上および国王自ら料理を取り分け下赐する「御流顶戴」、参列者全员による北殿での踊り见物によって构成されている。
(3)即位仪礼と册封仪礼の比较
即位仪礼と册封仪礼を通観すると、复数の仪式で构成されており、仪式ひとつひとつに固有の目的があり、それらひとつひとつが王位継承を演出していたことが分かる。前述したように単に即位式、册封式をもって王位を継承したと考えるのではなく、前后に开催された仪式をまとめて即位仪礼、あるいは册封仪礼と称すべきであろう。
さて、これらの仪式を大きく区分すると、即位式·册封朝贺式を中心に、前日の告祭、后日の寺社等参拝に分けることができる。前日の告祭および后日の寺社等参拝は、宗教施设における王位継承关连事业というべき仪式で、寺社に祀られる先王や孔子庙に安置される圣人、闻得大君や御岳に所在する琉球独自の神々へ王位の継承を报告し、承认を得るという目的があった。他方、即位式や册封朝贺式では琉球の役人を対象として新国王の诞生と君臣关系の刷新を标榜して行われていたと思われる。
とくに新国王を象征的に披露し、新国王との关系を再构成するうえで即位式や册封朝贺式は重要な意味を持っていたと思われるが、即位式·册封朝贺式を比较すると、式次第·参列者·式中に承认された位阶升进対象者の范囲はほとんど変わらなかった。
尚育·尚泰の即位はそれぞれ、尚育は前王の隠居に伴う即位、尚泰は幼年の即位という先例と异なる要素を包含していたため、単纯な比较はできないが、位阶升进者の御拝·天之御拝·朝之御拝·下库理御规式·飨応という仪式の基本构成は、即位式·册封朝贺式ともに同じであったとみてよい。
また、即位式·册封朝贺式ともに参列者は、男性は高官である王子众以下から宫古岛·八重山岛の士族层まで、女性·子どもは新国王の姉妹から亲戚·由绪方などであり、ほとんど同じ规模であったといえる。
位阶升进についても、対象者は、首里·那覇·久米村·泊村·御书院·御近习·御物奉行方·申口方·平等之侧·御医者·禅家·圣家·诸间切および诸岛のさばくりであった。それまでの勲功次第で申请するため、升进人数は场合により増减がみられるだろうが、即位式·册封朝贺式で升进する人数もおそらく大きな隔たりはなかったものと思われる。
なお、式次第、参列者でいえば、即位式·册封朝贺式と元日仪礼·冬至仪礼との类似性も指摘しなければならない。とくに位阶升进者による国王への御拝·天之御拝(子之方御规式)·朝之御拝(唐玻豊御规式)·下库理御规式·飨応という式次第は『琉球国由来记』との记述にほぼ类似する。また、史料中にも各仪式で用いる道具、下库理御规式での飨応方法、天之御拝での「唐礼」のやり方など「冬至·元日同断」や「元日同断」という表现が散见される。即位式·册封朝贺式が、おそらく国内でも最大の権威性を伴う仪礼であった元日仪礼·冬至仪礼と同规模で执り行われていたことを确认しておきたい。
このように、即位式·册封朝贺式そのものをはじめとして、その前后の仪式构成からみても、即位仪礼と册封仪礼はほぼ同じ构造も持っていたのである。萨摩藩家老からの王位継承许可状の披露があるなど即位仪礼が近世日本の権威性に寄りかかった仪礼的特质を持つ一方、册封仪礼は清朝中国の礼的秩序に基づいて构成されていたように、王位継承を象征する行为や背景は、まったく异なる性格を帯びていた。しかし、王位継承を周知し、新しい国王のもとであらたな君臣关系を再编する方法は、同様の手法が采られていたといえる。このように、即位仪礼と册封仪礼はその権威的背景の相违はみられるものの、首里王府は、王位継承という国家的プロジェクトである即位と册封両方をほとんど同じ「重み」で遂行していたといえよう。
それでは、それぞれの仪礼の相关关系の有无はみられるのであろうか。次章では、祝文に注目し、即位·册封双方の仪礼的关连をみていきたい。
2.祝文からみる即位仪礼·册封仪礼
(1)尚育の即位·册封と祝文
前章でも触れたが、即位仪礼·册封仪礼のなかには祝文が登场する仪式があった。祝文とは、告文·祭文とも称される汉文调の祝词である。仪式自体の目的が明示され、また即位仪礼·册封仪礼双方ともに登场するため、両仪礼それぞれの意义や相互关系をうかがい知ることができる史料である。
以下、祝文を引用して仪礼の意义を分析する。改行や抬头·迸出の规则に龃龉がみられるが、史料のまま引用した。
図1は、尚育の即位仪礼と册封仪礼のうち、祝文が确认された仪式のみを示したものである。たとえば、道光8(1828)年3月17日に実施された円覚寺告祭では、祝文①が使用された、のようにみる。すべての仪式で祝文が登场するわけでなく、また史料の制限によって全祝文の収集はかなわなかったが、図1によると即位仪礼で三通、册封仪礼で二通の祝文が确认できている。
まずは祝文①を取り上げたい。
[祝文①]
维
道光八年歳次戊子三月十有七日丙辰中山王世子育恭遣法司官臣马德懋
敢昭告于
先王各神位曰育谨择本月十有八日良辰只承
慈命勉摄
王职冀邀
神鉴俯顺育衷俾得时和年豊家给人足俗咸跻于仁寿世共享夫升平谨
告
内容は、王世子である尚育が三司官(法司官)である马德懋(与那原亲方)を派遣して先王の霊位に対して、良き日を选び、尚育が王职を摂す许可を得た旨の报告と今后の琉球国の安宁·繁栄を祈念する内容となっている。なお、祝文②は、天王寺で使われた祝文は祝文①中にある「先王各神位」を「先王妃各神位」としている以外、同文である。
祝文で王位継承を示すのは「只しんで慈命を承け勉めて王职を摄す」との个所である。尚育は、前王の尚灏の隠居に伴って即位したという事情から、国内あるいは近世日本に対しては「即位」や「相続」としてきたが、前王の死去前であったため清朝向けには「摄位」という表现を使用していた。祝文①は、前王の隠居を示さず清朝向けの王位継承の说明を反映させたものとなっている。
即位式に行われた朝之御拝では、三跪九叩头·献香·万歳三唱のあと次の祝文③が読み上げられた。
[祝文③]
琉球国中山王府臣法司官勷谨率同僚诚欢诚忭稽首庆
贺受摄位之
命权管国事永隆奕世之休克广贻谋之盛钦惟
殿下
令德备乎三善
仁闻昭于四方宗社奠安臣民忻戴是以文武百官同效华封叩祝
圣筭于万年臣等无任欢跃感戴之至
前半部分で三司官が王府の役人を率いて、尚育の摂位と国事の「权管」および、それに伴う琉球のさらなる幸いの到来と繁栄を祝い、后半では尚育の令徳を称え、役人皆が尚育を祝福して长寿を祈るものとなっている。
祝文③で王位継承を示すのは「摂位の命を受け国事を権管するを庆贺し、云々」の个所にあたる。祝文①と同じく「摄位」を采用して清朝向けの表现を使っているが、「权管」という文言にも注目したい。「权管」とは「仮の」という意味で、即位式での王位継承がいまだ完全なものではなかったという余地を残した说明となっている。
册封仪礼では、册封朝贺式で使用されたふたつの祝文が确认できる。まずは天之御拝の祝文④をみていきたい。
[祝文④]
琉球国中山王臣尚育深蒙
皇恩欣逢
册封大典
天使贲临袭封王爵冠裳更新择吉辰卒领百官遥望
北关拝谢
天恩伏愿
万寿无疆景运永享和调玉烛巩固金瓯臣等下情不胜欢忭感激之至
中山王に叙任された尚育が、天使(册封使)を琉球に派遣し、王爵に叙任した清朝皇帝に対し感谢するため、百官を従えて北京を遥拝し、皇帝の长寿を祈るという内容である。
天之御拝に続く朝之御拝の祝文⑤は次の通りであった。
[祝文⑤]
琉球国中山王府法司官臣等欣逢
册封王爵恭保藩职伏祈
国王殿下偹膺五福茅土永昌子孙绵延国祚无疆臣等下情无任忻跃感戴之至
三司官が尚育の册封を喜び、尚育の幸福·子孙繁栄·国土の安宁を祈念する内容となっている。朝之御拝は、琉球役人から首里城正殿二阶の唐玻豊に登场する国王への遥拝仪式であり、祝文⑤も目的通りの内容となっている。なお、祝文の読み上げは久米村方の长史であったが、三司官が主语になっているのは、仪式中において三司官が役人を代表して献香などを行ったためである。
尚育の即位·册封で使用された祝文からは、即位时の王位継承は「摄位」または「权管」というように、「仮の王位継承」という意味が含まれていたが、册封后はそれらの表现が取れ、完全な「中山王」となったと明示されていた。ただし、尚育は尚灏の隠居による即位だったため「摄位」と表明せざるを得なかったという事情もある。果たして即位仪礼による王位継承は「仮の王位継承」と捉えられていたのか、尚泰の事例も确认したい。
(2)尚泰の即位·册封と祝文
図2にあるように、尚泰の祝文は、即位仪礼で四通、即位仪礼で三通が确认できる。尚泰の即位式前日に円覚寺へ供えられた祝文⑥は通りであった。
[祝文⑥]
维
道光二拾八年歳次戊申五月七日乙丑中山王世子泰恭遣法司官臣向良弼敢昭告于
先王各神位曰泰谨择本日八日良辰继
先父王从权即位冀邀
神鍳俯顺泰衷俾得时和年豊家给人足俗咸跻于仁寿世共享夫升平谨
告
后半部は祝文①と同文であるが、おおよそ道光二八(一八四八)年五月七日に三司官である向良弼(国吉亲方)を遣わし、尚泰が先父王から王位を継いで即位したことを报告し、これからの国家安宁を祈愿するという内容である。祝文①と异なるのは、王位継承の说明にあたる个所である。つまり、祝文①では「王职に摄す」としていたのが、この祝文⑥では「从权」に「即位」したとしている。「从权」とは临机の处置を意味するもので、祝文⑥によると即位仪礼による王位継承は「仮の王位継承」というニュアンスを示している。
圣庙告祭では、孔子などに対して次の祝文⑧が述べられている。
[祝文⑧]
维
道光二十八年歳次戊申五月二十有五日丁酉琉球国中山王世子尚泰代遣法司官向良弼敢昭告于
至圣先师孔子神位曰泰于本月初八日経受
先父王大业登极即位権修
王职粛献酒香用伸明告配以
复圣颜子
宗圣曾子
述圣子思子
亜圣孟子尚
飨
すなわち、世子である尚泰が三司官を派遣し、孔子神位に先父王から大业を受け継ぎ、登极即位し、王职を修めることになった旨を报告するために献酒·献香し、颜子·曾子·子思·孟子にも供物を捧げるとある。登极即位としながらも、やはり「権」字を使い、「仮」に王职を継いだという意味を含んでいる。
尚泰の册封仪礼では、谕祭前日の円覚寺尚育神位への告祭で使用された祝文⑨が确认できる。この仪式は、尚育の际には见いだすことはできなかったが、おそらく定例化したものであったと思われる。谕祭は那覇に所在する崇元寺で执り行われたが、国王神位は崇元寺のみでなく、首里城に邻接する円覚寺にも安置されていた。
[祝文⑨]
维
同治五年歳次丙寅七月十有九日
乙亥中山王世子泰恭遣法司官臣向有恒敢昭告于
先王尚育神位曰择定本月二十日午时
钦差正副使恭行
谕祭之礼伏惟
鉴知谨
告
使用された祝文をみると、世子尚泰が三司官を派遣して尚育の神位に翌日午の刻に册封使が谕祭を実施する旨を报告する内容である。册封前のため尚泰は世子という称号を用いていることが分かる。
册封朝贺式で使用された祝文⑩、祝文⑪については、王名以外、尚育册封时の祝文④、⑤と同文のため引用は避けるが、あらためて指摘すると、册封による叙任を受けたため中山王の称号や王爵への册封を再认识するものとなっている。尚泰の祝文を通してみても、王位は即位仪礼では完全には継承されず、册封をもって完成していたといえる。即位仪礼と册封仪礼は断絶した王位継承仪礼ではなく、首里王府は连続したものとして理解していたと思われる。
おわりに
本稿で指摘したように、王位継承をめぐっては、琉球人のみが参列する仪礼をみると、即位仪礼·册封仪礼ともに类似の仪式构造を持っていたが、祝文からみるとあくまで即位仪礼の王位継承は「仮の王位継承」であり、册封を経て継承が完成するとみなされていた。一方、琉球で最高権力者に対する呼称である「上様」の使用や、琉球国王を象征する「龙簪」は即位仪礼を契机としていた。つまり、祝文·呼称·簪·衣裳など、どこに基准を置くかによって王位継承の実像が异なって见えてくるのである。
さらに言えば、即位や册封以外も検讨する必要がある。たとえば、尚泰は元服前に即位したため、王府高官によって即位式での「大帯」着用が否定され、また诸仪式も本人ではなく代理での実施が求められたように、王位継承の诸段阶のおける元服の位置も考えなければならないだろうし、次期国王(中城王子)の岛津家当主へのお目见えや、起请文も考虑する必要があろう。そのため今后は、即位·册封に限らず、より视野で王位継承を考えていく必要があろう。
このほか、大きな课题として御内原での仪礼の解明が残されている。本稿ではまったく言及できなかったが、册封朝贺式などに「于御内原御规式相済」という表现がみられるなど、御内原で仪式が执り行われていたことが记载される。おそらく御内原では、闻得大君など女君との仪式が展开したと思われるが、どのような仪式であったかはまったく分からなかった。王位継承への女性の关わりと、女性が司っていた琉球古来の信仰の果たした役割を解明しなければ、王位継承の実态はみえてこない。大きな课题だが、追求していきたい。
*本稿は、JSPS科学研究费(课题番号16K16909·16H03476)の成果の一部である。
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