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供册封使观赏的组舞曲目“卖花之缘”考述——以与演戏故事、组舞剧本的内容比较为中心

  【中文提要】 1719年(康熙58年)尚敬王册封之际,任命玉城朝薫为踊奉行(官职)。组踊便是玉城朝薫以台词为主,融合了歌曲与舞蹈结合而成的一种歌舞剧形式。此后,为款待中国前来出席国王继位大典的册封使,陆续创作了很多组踊作品。由于首里王府为册封使准备的组踊及琉球舞踊节目的台词以及歌词全是琉球语,册封使很难理解,为了方便册封使在观看组踊与琉球舞踊之际便于理解,王府将琉球舞踊的歌词及组踊的内容用中文做了翻译,制作了一本名为《演戏故事》的解说书。如今《演戏故事》成为瞭解首里王府在冠船艺能上演之时,瞭解当时王府是如何对册封使进行介绍说明的重要史料。

  本文探讨的内容是1808年(嘉庆13年)上演的组踊《卖花之缘》(剧目标题为《夫妇约别得财再合》)。通过与组踊剧本的词章比较,从以下三点进行探讨。

  第一,讨论《卖花之缘》里登场的人物是否在琉球王国时代里真实存在的人物?文章将从周边史料进行验证,另外作为故事的展开,文章将讨论登场人物是如何通过用组踊剧本的词章以及演戏故事的翻译表现出来的。第二,对作为《卖花之缘》舞台的“大宜味(村名)间切”,文章将从近代琉球周边史料出发,探讨选择这个场所作为背景的原因。第三,通过演戏故事与组踊剧本的对比,讨论主人公乙樽和鹤松,以及与森川之子相关的心理描写。

  演戏故事中的组踊剧目《卖花之缘》,取材于近代,真实地描述了当时无法继续在首里、那霸生活的下级士族居取人(落魄士族阶级到农村从事农业谋生,开垦当地人的荒地或者受当地人雇佣开垦荒地,而获得一个居所)的生活,通过上述三方面探讨,可以瞭解居取人当时的真实生活状况。另外《卖花之缘》也是琉球王国社会的真实写照。森川之子一家由于经济困难而一时分离,乙樽、鹤松为了丈夫、父亲不惧山道远阻,只为家族团聚重逢。

  我们从中能发现,在册封使面前、在冠船艺能这表演这出剧目是有目的。剧目通过鹤松的“孝”以及作为妇女乙樽的“贞妇”,巧妙地表现了“儒家思想”的表象。通过剧目,琉球王府向册封使表达了其作为附属国接受了儒家思想这一强烈信号。

  【关键词】组踊;玉城朝薫;册封使;《卖花之缘》

  【要旨】组踊は、1719(康熙58)年尚敬王册封の际、踊奉行に任命された玉城朝薫によって创作された台词を主として歌曲と舞踊を组み合わせて一组にまとめた形式の歌舞剧である。その后、组踊は中国から访れた国王即位仪礼を取り仕切る册封使歓待のため数多く创作されている。首里王府が册封使に供した组踊の词章や琉球舞踊の歌词はすべて琉球语であったことから、册封使にとっては难解であった。そこで王府は、册封使に组踊や琉球舞踊を観剧する际に、内容を理解してもらうため、琉球舞踊の歌词や组踊の内容を汉文訳した解说书として「演戏故事」を作制している。「演戏故事」は、首里王府が冠船芸能上演の际に、组踊りが册封使に対してどのように解说されたのかを知る上で重要な史料である。

  本稿では、1808(嘉庆13)年に、上演されたとされる组踊「花売の縁」(演戏故事表题:「夫妇约别得财再合」)を取り上げる。组踊台本の词章と比较することで、どのような相违があるのかを、以下の三点から考察する。

  第一に「花売の縁」に登场する人物が王国时代に実在した人物であったのか、周辺史料から検证し、また物语の展开として、どのように登场人物が组踊台本の词章および演戏故事の汉文訳で表现されたのかを検讨する。第二に、「花売の縁」の舞台となっている「大宜味间切」について、近世琉球における周辺史料からその场所を选定した背景を検讨する。第三に、主人公である乙樽と鹤松、森川の子に关する心理描写について、演戏故事·组踊台本との比较を通して検讨する。

  上记の内容の検讨を通して、演戏故事で记された组踊「花売の縁」については、近世琉球で首里·那覇で住めなくなった下级士族である屋取人を题材としていること、そして当时の社会情势を実に具体的に描写させていたことがわかる。「花売の縁」は琉球王国の社会の実态を描写する一方で、森川の子一家が経済的困难のため一旦一时离别するが、乙樽·鹤松が夫·父のために远い山道を苦とせず、家族の団らんを取り戻す展开となっている。

  そこには、册封使や冠船芸能での上演を意识し、鹤松の「孝」、そして乙樽の妇女としての「贞妇」といった「儒教」的表象が巧みに盛り込まれており、こうした舞台上の组踊の内容から、王府の琉球における属国としての儒教受容を强く册封使に示す意図を窥い知ることができよう。

  【 キーワード】组踊;玉城朝薫;册封使;「花売の縁」

  はじめに

  本稿においては、演戏故事により汉訳された组踊「花売の縁」と组踊台本の词章との内容比较を行い、「花売の縁」における演戏故事の汉訳と组踊台本の词章に见られる内容から琉球王国时代の社会状况をどのように表象しようとしたのか、そして王府が冠船芸能で上演する「花売の縁」を通して册封使に何を伝えようとしたのか、といった问题を研究対象とする。

  冠船芸能とは、首里王府が中国から来琉した册封使を歓待するため创作された芸能のことである。冠船芸能の中で、演じられた演目の一つに组踊がある。组踊は1719(康熙58)年尚敬王册封の际、踊奉行に任命された玉城朝薫により创作された歌舞剧である。内容は台词を主として歌曲と舞踊を组み合わせて一组にまとめた形式となっている。そうした组踊は国王即位仪礼を取り仕切るために中国から访れた册封使を歓待するため数多く创作されている。

  组踊の词章や琉球舞踊の歌词はすべて琉球语(主に首里の士族语)であったことから、册封使にとっては非常に难解であった。そこで王府は、册封使に组踊や琉球舞踊の内容を理解させるため汉訳した解说书を作成している。それが演戏故事である。

  现在、本稿において研究対象とした「花売の縁」が所収されている演戏故事は、「演戏故事」1808(那覇市歴史博物馆蔵、尚家文书第128号)に「夫妇约别得财再合」と题している。现存している组踊台本については、现在10种の存在を确认できる。

  「花売の縁」については、すでに伊波普猷·真境名安兴·矢野辉雄が「花売の縁」と謡曲「芦刈」との内容比较という手法で研究を行っている。まず伊波は、「花売の縁」における「芦刈」との词章などの类似性に着目し、组踊「花売の縁」が謡曲の「翻案物」であると位置づけている。真境名·矢野は「花売の縁」と「芦刈」との比较から①主人公の妻が名家の乳母となること②夫を探しに行くこと③塩屋田港が謡曲の舞台となる御津の浦に拟せられていることなどの类似点を指摘している。一方、謡曲よりも写実的であることや森川の子が首里士族から都落ちをし、屋取人となり花売になる様子から近世琉球の社会问题を题材にしたものであることも指摘している。

  さて、「花売の縁」の作者についてであるが、又吉康和や山里永吉は「花売の縁」に关する逸话や高宫城家への闻き取り调査などから、高宫城亲云上朝常ではないかと比定している。しかし、又吉·山里らのそうした比定については、実证的な史料が见つかっておらず、未だ推测の域を出ていない。

  「花売の縁」の组踊台本については、1980年代の冲縄県教育庁文化课による调査报告により、9种の台本の存在が确认されている。また、组踊台本の书志学的研究において、大城学が伊波普猷『校注琉球戏曲集』に所収されている台本と薮の莺が新闻に连载した1866(同治5)年の冠船芸能の际の台本とされる内容との比较検讨を行なっている。

  台本の词章分析において大城は、まず伊波普猷『校注琉球戏曲集』に所収されている「花売の縁」の台本と、冠船芸能の台本をもとに记述したとされる薮の莺の台本との间には差异が认められる。また、薮の莺の新闻连载の台本では、尚泰王の册封の际の台本をもとに记述されたものとされているが「疑义が认められる古老に质して」と记されている点がある。したがって、大城は组踊台本が书写·编集される过程で、口头伝承された词章なども含んでいると考えられ、组踊台本の史料の性格上系统を示すことが困难であるとも论究している。

  以下、本稿では演戏故事と现在确认できる组踊台本との比较を通して、①登场人物(乙樽、鹤松、森川の子、猿引、薪木取)の人物表象②「花売の縁」における舞台设定を大宜味间切とした背景③「花売の縁」に见える近世琉球社会の事象を演戏故事·组踊台本及び周縁史料などから読み解き、冠船芸能で「花売の縁」が上演された意义を検讨してみたい。

  1 「花売の縁」における人物表象

  まず、「花売の縁」に登场する森川の子(以下、森川と称す)の人物描写について、演戏故事と组踊台本の内容を比较してみたい。

  ①森川の子

  演戏故事では森川を、以下のように描写している。

  森川子肩挑百花东卖西卖而行路间叹曰人生在世或盛或衰譬如暑去寒来我家业破荡如此则妻子死生亦无便可聴単身焦心只怕如狗猫转死沟壑呜呼自有生民以来㷀独未有如我者然如此悲痛亦何有益耶不如聴天繇命聊以度日即徃东西各村巡到

  【森川の子は桃や多くの花を肩にかついで、色々な场所で売り歩いていた。その道すがら叹いて、「この世の人の盛りや衰えは、暑さがさって寒さがくることのようだ。家の财产をつぶし、妻や子どもの生死を知る便りもない。ただひとり気をもんで、犬猫のように谷间に転がって死ぬことをおそれる。ああ。人として生まれ、私のような孤独な者はいないだろう。このように痛み悲しんいてもどうしようもない。天命にしたがい、ひたすら日々を过ごすしかない。」と言い、(森川は)多くの村々を巡った。】

  一方で、演戏故事に対応する组踊台本の词章では、花売として塩屋田港へ向かう森川の様子について以下のように记している。

  是や首里方の士森川の子。この世人间の盛衰や夏と冬ごゝろいき替り/\、散々にやつれ果て、此のなりよやれば、あはれ妻子の生死のことも便り无ぬあれば、音信も闻かぬ。浅间しや一人思焦がれとて、道柴の露と共に消え果てゝ、犬猫のゑじきなゆらと思ば。あゝ、この天の下に我如る至极因果の者や居らぬ。いや泣きやんてやりきやしゆが忧き苦れしやしゆすも天の御定のこの生れと思て、思切やり急ぎ日々の营みに、けふや东方の村々に行きゆん。

  【これは首里方の士。森川の子この世人间の盛衰というのは、夏と冬の心いき替り/\、散々にやつれ果ててこの姿になり、哀れ妻子の生死の便りもなければ音沙汰もない。浅ましや一人思い焦がれて道柴の露と共に消え果て犬猫の饵食になると思えば、ああこの天の下に私のように至极因果の者はいない。いや泣いていてもどうしようもない。忧き苦しさはあるが、天の御定めのこの生まれと思い、急ぎ日々の営みのために今日は东方の村々へ行く】

  歌 せんするぶし

  东西々々闻きめしやうれまこと名にあふ盐屋港、入船出船絶え间无く、浦々诸船の舟子共苫を敷き寝に梶まくら、哀れに謡ふ节々を闻くにつけても袖ぬるゝ。山の端出づる月影に、海士のつり舟漕ぎつれて、冲の方にぞ出ぢて行く。我も世渡る营みに梅や樱に杜若山吹长春风车花の色々笼に入れ、村々里々ゆきめぐり、これ买やり赐れ、踊て御目かけら。

  【东西々々闻いてください。実に名高い塩屋港、入船出船絶え间なく、浦々诸船の舟子共。苫を敷き寝に楫枕。哀れに謡う节々を闻くにつけても袖濡れる。山の端いづる月影に、海士のつり舟漕ぎつれ冲へ出ていく。我も世渡る営みに、梅や桜に杜若、山吹、长春、风车。花の色々笼に入れ村々里々行き巡る。これを买ってくれ。踊って御目にかけよう。】

  演戏故事では、「人生在世或盛或衰譬如暑去寒来」と记されており、森川が人の盛衰を寒さや暑さが変わっていくようであると述べている。一方で、组踊台本の演出で森川の登场は、下手奥から花かごを担いで上手前に向かって歩んで、舞台中で右回りを行い、正面に向かって基本立ちしている。その后、组踊台本に记されている森川の词章は、「この世人间の盛衰や夏と冬ごゝろいき替り/\」とされており、演戏故事の汉訳と一致している。こうした演戏故事の汉文と组踊台本の词章の双方から、花売りに身を落とした森川の妻子との音信が不通である状况、首里へ戻ることを谛め、ただ天命に身を任せて日々の暮らしをする様子を窥い知ることができる。

  その内容からして、演戏故事の汉訳が组踊台本の词章に则して行われていることがわかる。演戏故事の内容については、汉訳が台本に基づきなされたものが少なくないが、汉訳が全て台本の词章と一致するとは限らない。琉球语を理解する琉球侧において、舞台の音楽効果や立体的なビジュアルな表现を构筑することを目指す台本とは异なり、演戏故事は剧の筋を伝える汉文の解说书であることから、展开する筋の文章描写に彻している。まず、そうした両者の性质に立脚した视点が比较分析の际には重要となることを指摘しておきたい。组踊台本では、森川が名乗りを行う际「首里方の士」と述べているため、士族身分であることが分かる。一方で、森川の容姿は、「ほふらく头巾、杉笠かつぎ、胡染木绵衣裳、脚はん、黒足袋、花加笼一荷に梅、樱、杜若、山吹、长春、风车、色々の花入付かたげ出る」となっており、花売であることがわかる。演戏故事ではあらすじの说明を重视し、容姿については舞台上の出で立ちで一见してビジュアルに视覚で理解できることから、具体的な容姿にかかる说明は行われてない。こうした点も演戏故事と台本の内容の大きな违いの一つである。

  さて、この花売りの出で立ちは「振売」と呼ばれるものである。「振売」をしている「花売」は、管见の限り琉球の事例では见られない。しかし、近世日本の身分制について吉田伸之は、店舗を构えずに笼を下げて歩いている商人である「振売」を都市部の下层民として位置づけている。この点は、日本の芸能の影响を考える上で重要である。「首里方の士」から「振売」として花を提げて売る姿は、「下层民の商人」にまで落ちぶれた森川の様子が日本风に表象されている。一方、士族身分でありながら「下层民」に身を落としていく近世琉球における「屋取人」という士族人口の増加に伴う下级士族の社会问题を组踊で取り上げた点にも注目したい。

  近世琉球の屋取について、田里友哲は1690(康煕29)年の「李姓家谱」によって大里间切稲岭村から具志川间切の豊原へと移住し、屋取りしたのが屋取人の管见しうる最も古い记述であるとしている。その后、蔡温が摂政として王国の中枢で行っていた时期には、士族の増加など人口问题が浮き雕りとなり、「球阳」では1725(雍正3)年に王府が、本来百姓身分が行っていた絵师や庖丁人、その他船头や作事などの业务を士族が行うことを许可する记事が见られる。

  雍正十(1732)年に着された『御教条』には、以下の记述がみられる。

  御当国役座之仪数少有之、诸士之仪者年増致繁栄候付而其内御奉公不仕方茂余多可罢在候、然共士与申者、其筋目百姓より抜群相替候右之决を以、常之忠义之心题目存国土风俗之为何篇气を付神妙相勤候ハヽ、是亦御奉公之筋不軽勤候、何れ茂存知之通风俗悪敷罢成候ハヽ、各子孙茂悪敷相成候仪案中之事候、能々此了简を以士之节仪大切存万端正道可致执行事

  琉球の役座は数少なく、诸士については、年々増加しており、士(族)の中には、国へ御奉公できない人々も少なからずいる。士(族)は、琉球社会において、その筋目(身分)は百姓より上位に位置付けられている。常に「忠义の心」を题目として、国土风俗のために何遍も気をつけて特に働けば、これまた御奉公の筋での勤めは軽くないとし、风俗が悪くなれば、子孙までも必ず悪くなることから、士(族)の礼节を保ち、万端正道をおこなうべきであると谕している。

  ここでは琉球での士族に与えられる役职が减っている一方で、士族が年々増加しており、无役の士族が増えていることを示し、士族として国に対する忠义の心を持ち、风俗を良くするために勤めることを勧めている。ここでいう「士族として国に対する忠义の心を持ち、风俗を良くする」ことは儒教的精神の高扬を促しているとみていい。また、演戏故事の演目の解说の中では、こうした琉球社会における彻底した儒教伦理の浸透を强调するものが多い。しかし、「花売の縁」では森川が何とか首里へ戻るため、「花売」をして働く姿も前述した士族としての心持ちを表す人物表象の一侧面をになっていたと考えられる。

  ②乙樽·鹤松

  次に、森川の子の妻乙樽と子鹤松についてであるが、演戏故事では以下のように记されている。

  乙樽従为乳母多蒙主人殊恵豊衣饶食并无饥寒之忧乃欲依前约寻见森川奈不知所在荏苒之间早过十有二年鹤松年已十二歳矣

  【乳母となった乙樽は、主人から多くの衣食の恵みを受け、饥えや冻える心配も无く、(夫との)以前の约束通り、森川を寻ね探したが、いかんせん所在がわからず、そうこうしている内に十二年がすぎ、鹤松の年齢も十二歳となった。】

  乙樽は裕福な士族の家の「乳母」となっており、「主人」の恵みを受けて饥えや寒さを心配すること无く衣食も充足し息子の鹤松と暮らしている。ここで乙樽がなった「乳母」とは、琉球社会で见られた亲戚や近所の村の若い女性を选んで、产后の女性が疗养中や乳の出が悪いときに母亲代わりに赤子に乳を与える人のことである。「乳母」は奉公先の士族の子守り役あるいは教育系としての「乳母」の存在は大きく、乳母と子との关系は、ムヤーナーあるいはムイングヮといった关系で成人后も続き、绊の强い关系にあったとされている。一方、近世日本の武家における乳母について吉田ゆり子は、子どもが离乳するまでの雇用关系であり、それ以降关わりがなかったのではないかと指摘している。そのため、琉球での「乳母」は日本とは异なり、身分を问わず乳母と子どもとの关系が绊の様に结びついており、强固な关系であったことが伺える。ちなみに、琉球での「乳母」の习俗は、组踊では「花売の縁」以外に、「大城崩」や「大川敌讨」などにも登场している。组踊以外でも近代冲縄芝居の「泊阿嘉」、「薬师堂」で乳母(チーアン)が登场し、嫁入り前の娘に随行する场面などからもうかがえる。

  首里へ戻り家族とともに暮らすことを谛めかけていた森川との暮らしぶりの相违は、舞台上で乙樽と鹤松の装束からもうかがえる。乙樽は「垂髪、紫长巾、作花并金银水引、のし纸差、女笠かつぎ、琉缝薄衣裳、绯さや足袋」という士族の女性の出で立ちとなっている。鹤松もまた「髪半向头巾、作花、金银水引差、板〆缩缅、振袖衣裳、脚胖、绯さや足袋」とあり、士族の若众の装束である。前述した森川の装束とは実に対照的である。

  ③猿引

  「花売の縁」では、久志间切辺野古村の猿引が登场する。演戏故事では以下の通り汉訳されている。

  时有牵猿行过者原是久志郡邉野古村人也

  【そこに猿引が通りかかった。もともとは久志间切辺野古村の人である。】

  因大宜味郡官府欲见猿戏故牵徃彼郡

  【大宜味间切番所で、猿の曲芸をみたいというので、(猿を)ひいてこの间切へ来ていた。】

  乙樽曰既他县人则吾应问这郡人只见汝猿必定有戏艺求俾做戏以慰我心

  【乙樽は「他间切の人であれば、私はこの间切の人に寻ねてみます。あなたの猿を见ていると必ず何か曲芸ができるはずでしょう。猿に演技をさせ、私の心を慰めていただけませんか。」と言った。】

  牵猿者亦俾作一个武戏既而辞曰今宜使其尽戏艺但不可不到大宜味駅如両三日□(留ヵ)驾于此则再牵来俾尽戏艺

  【猿引はまた一つ猿の武芸をし终えると、「今日はいろいろと曲芸をお见せしたいのですが、大宜味番所へいかなくてはなりません。もし、二、三日ここに滞留するのであれば、ふたたび猿を引き连れて、曲芸をお见せいたしましょう。」と言った。】

  このように、演戏故事では「牵猿者」(猿引)が登场し、乙樽と鹤松に猿の芸を所望され、旅の慰めとして猿の芸を披露する内容が记されている。この内容は组踊台本でも同様の词章があり、台本に则して汉訳がなされている。近世琉球において猿引は、管见の限り见られない。「猿引」に关しては、近世日本では庶民の娯楽として猿引が猿に芸を仕込んで行わせる见せ物があったことが分かっている。

  近世日本の猿引について织田纮二は、中世では厩猿信仰であり、厩の火灾防止として猿引を呼び、猿の舞を行わせる习俗から始まり、その后、近世となって庶民や士族の娯楽として猿引が定着していったことを指摘している。

  また、中国の研究者である史静は、清末に猿まわしが庶民の娯楽として北京で行われていたことを指摘している。猿まわしは中国においても娯楽として行われていることから、册封使は観剧した际に、中国风な娯楽が琉球社会でも定着していると思ったであろう。

  组踊における猿引は、乙樽と鹤松の长旅の慰めとして猿の芸をみせる。父亲を探しに出た妻乙樽と子鹤松らに猿の芸をみせる场面は、本筋の内容からして必ずしも设定しなければならない内容ではなかったはずである。组踊台本では、猿の踊りの歌词について记されているが、演戏故事では、そこは汉訳されていない。猿は人间が猿に扮したものであり「张抜猿面并手袋身体尾まで胡染木绵调」と、人が面を被り、猿の体を模した装束をまとい、组踊の娯楽性をさらに高めるシーンとしてセットされている。

  组踊「花売の縁」は物语を展开する中で、本筋とは关系なく、こうした娯楽性にも様々な工夫がなされている点も特征として指摘することができよう。组踊自体、4·5ヶ月にも及ぶ长い册封使の滞在中に挙行されるアトラクションであった。组踊はあらすじのみを辿るのではなく、アトラクションとしての娯楽性を高めるといった本筋とは关系のないそうした构成も含まれている点にも留意しなければならないだろう。しかし、琉球において猿引がいたという事実は管见の限り确认できない。

  近世日本や清代においては猿引が被差别民として扱われていたという指摘もある。琉球にも类似している身分として「京太郎」と呼ばれる首里の安仁屋村を拠点とし、各地を回る门付け芸人がいた。组踊の世界では「万歳敌讨」で仇讨ちのため、主人公の谢名の子と庆云兄弟は「京太郎」に身をやつし敌方へ向かう场面がある。しかし、「花売の縁」で登场する猿引は、史料がないため不明であるがおそらく「京太郎」と同じ身分の位置づけであったのではないかと推测される。

  ④「花売の縁」での薪木取と塩屋田港の検讨-周辺史料の検讨から-

  「花売の縁」では薪木取が登场する。さて、その薪木取についてであるが、干隆十六(1751)年に编纂された「山奉行所公事帐」において薪木取が薪を取って商売することに关して以下のような注意を促している。

  第七项

  一割薪木商売为仕候ては、百姓共致勘违直木胜に伐取、山工正法之支罢成候に付

  被召留、丸薪木にて商売可被仰付事

  条文で诸间切に対し、薪木を売って商売をする百姓达の中には、「直木」といった王府が造船用などで用いる材木を伐采しようとする者がいる。そのため、王府は「直木」の胜手な伐采は山工正法(植栽における管理法)に支障をきたすことからやめさせ、「丸薪木」と呼ばれる迁曲した薪を商品として売ることにせよ、と命じている。

  首里王府は大宜味间切に対し、このような木の伐采を禁止し取り缔まっている。また大宜味间切の御法度の木を伐采し、売买した者に対して法で定められた科を行うよう指示している。王府は指定する御法度の木が、回船によって密かに持ち込まれることを防ぐため、大宜味间切から首里·那覇へ船で向かう场合には、「奉行」に対し船改め(船の荷物検査)を行うことも指示し、そうした通知が首里の御物奉行から大宜味间切の検者へ下达されている。さらに王府は抜売(密売行为)の手口を想定し、大宜味间切の关系部署へ通达し证文をとるといった方策を讲じ、大宜味间切から他の港へ寄る际は、その港の在番へ宛书を送り、その送り状を以て検査を行うことを命じている。

  こうした近世琉球の林业にかかる规制について、仲间勇栄は、「山奉行所公事帐」の分析から、王府が「御法度の诸木」を多く定めていたことを指摘している。木が燃料のみならず、染料や薬、蜡烛の原料など用途が多く、林业が琉球にとって重要な产业であったことがわかる。

  近世琉球において、大宜味间切を含む本岛北部地域は、山林が多く林业が発达した地域で、时代は异なるが大正2(1913)年の新闻记事でも大宜味は、山林が多く薪取りが商売として成り立っていることが报じられている。

  さて、薪木取が乙樽と鹤松に访ねていくことを勧めた「塩屋田港」についてであるが、演戏故事には以下のように记されている。

  樵翁见之就认得森川族戚乃指教曰彼村之前有塩屋田港舟楫会集商民如云或买卖或戏艺甚是闹热一到彼处则应聴得森川踪迹

  【薪木取はこれを见て、(乙樽·鹤松は)森川の亲族であることがわかった。そこで、指をさし、「あの村の前に、塩屋田港という所があります。船が集まり、商人や人々も多く集まり、売买をしたり、芸を観たり、とてもにぎやかな所です。一度そこに行けば、森川の消息を寻ね聴くことができることでしょう。」と言った。】

  この场面、组踊台本の词章においては以下のように记されている。

  おの御二人や森川の子御由绪方の御様子、あの港前なちをる村や盐屋田港んで云やべいん。诸回船所の事やれば、那覇泊岛々浦々の商卖人大妆至极色々の物卖たり买ふたり、又诸方の旅人のだん/\の艺能、中々にぎやかな所だやべる。急ぎあの村なかへ御越しめしやうち、御たんねめしやうれば森川の御様子委细おんにゆかる筈だやべる。

  【御二人は森川の子御由绪方の御様子。あの港前である村は塩屋田港と申します。诸々の回船が集まり、那覇泊岛々浦々の商売人たちもたいそう至极色々な物売ったり买ったりしております。又、诸方の旅人が色々な艺能を行い、中々赈やかな所であります。急ぎあの村の中へ御越しください。寻ねていけば森川の様子をより细かく、お知りになるはずであります。】

  演戏故事·组踊台本双方で、「塩屋田港」が赈やかで多くの船や人が行き交う场所であることを记している。実际、近世琉球の大宜味间切塩屋村と田港村はどのような状况であったのだろうか。

  近世において大宜味间切では、「山原船」と呼ばれる货物运送船が物资の运搬に重要な役割を担っていた。1754(干隆19)年の「今帰仁杣山方式」では山原の各间切や津口において津口番を设けており、大宜味间切も例外ではなく、田港村では间切検者が担当することが记されている。上述したように、こうした王府の港湾対策は、大宜味间切を含めた本岛北部地域に山林が多く、王府が「御法度の木」として定める木が、那覇へ行く船で密输する事例もあるため、その防止策の一环としてなされていた。

  大宜味间切は実际に森林に恵まれ、王府にとって木材を必要とする际の供给地として重要であり、演戏故事や组踊台本に登场する薪木取のような山に入って落ちている枝などを拾い、日常でもちいる燃料として売る百姓も确かに存在していた。

  ⑤薪木取の舞台上の役割

  薪木取が登场する场面で、演戏故事では薪木取を「樵翁」と汉訳している。乙樽が薪木取に森川の子のことを寻ねた际に、薪木取は以下のように答えている。

  樵翁答曰夫森川子者迄于去年寓此江濵其为人也忠厚老实尽力营业少不懈怠争奈财运不好耕种遇旱煮咸遭霖无业可为时流涙曰我原保家宅衣食无忧但縁不幸接踵不能居住本籍遂离妻子远居他郷常图活命不遑尊见妻子已歴十余年并不知妻子之死生呜呼世上有如我愁苦者耶

  我聴之下不胜心酸然见彼行虽至如彼困穷之地操守士莭或栽锦花赏之或题诗赋吟之以解愁苦但至顷日不知走去何处也

  【薪木取は、答えて「その森川の子は、昨年までこの海辺に仮住まいをしていた。その人となりは情に厚くまじめで、仕事に精を出し、少しも怠るようなことはなかった。しかし、いかんせん财运が良くなく、畑を耕し植えれば、日照りに遭い、塩作りをすれば、长雨に遭い、仕事に恵まれることはなかった。」(森川の子は)时に涙を流し、「私はもともと家宅もあり、着るものや食べるものにも何不自由することがなかった。しかし、不幸が絶え间なく続き、首里で暮らすことができず、妻子とも别れ、远い异郷の地でなんとか命を长らえてきた。妻子に会うこともなく、すでに十余年が过ぎてしまい、妻子の生死も知らない。ああこの世の中で私のように忧い苦しんでいるものがいるのだろうか。」と言っていた。私はこれを闻き、心中强く悲哀を感じていたが、彼の振るまいは、困穷の地にいたるといえども、士族としての节度を守り、(时に)锦の花を植えて爱でたり、诗を作って吟じたりして、その忧い苦しみを解きほぐしていた。しかし、このごろは、どこへ行ったのかしらない。」と言った。】

  演戏故事の汉訳の中で、薪木取は森川が近くに住んでいたことを述べ、また、森川の人となりは、诚実で仕事に真挚に向き合う人物であったが、运がなく耕作をすれば日照りに、塩を炊けば长雨に遭うといった悲惨な情况を伝えている。森川は薪木取に自分の力で元の场所(首里)へ戻りたいが、暮らし向きが好転せず、妻子に会いたくても会えない、この世の中に自分のような不幸な者はいないと叹いている。このような状况下でも、演戏故事は森川が花を爱で、诗歌を咏むといった士族の节度を守っていることを记している。こうした内容は组踊台本の词章と一致している。

  こうした森川の子と薪木取とのやり取りの中で、组踊台本には记され、演戏故事では记されていないものがある。薪木取が森川の子の心境を咏んだ歌の词章部分である。その词章は以下の通りである。

  或时、滨宿りにわび住ひの题しち、歌にあばら屋に月や泄る、雨や降らねども我袖濡らち。又 矶ばたの者やれば、朝夕さゞ浪の音ど闻きゆるまた二三年先八月十五夜に、よらて月见しゆるうち、とかく故郷の妻子の事が思出しやべたら、歌につれなさや思ひ身に余て居れば、さやか照る月も涙に昙て。又ながめればつめて思事や増しゆり、とてもかき昙れ夜半のお月。

  【ある时、滨宿りの诧び住まいと题して歌った。あばら屋に月の光が漏れる。雨は降らないが、我が袖を濡らす。また、矶端の者であれば、朝夕さざ波の音が闻こえる。また二、三年前の八月十五夜に、月见している内にとかく故郷の妻子の事を思いだし、歌うつれない思いは身に余り、さやか照る月も涙に昙る。また、眺めればつのる思いは増すばかりで、かき昙る夜半の月。】

  この时に薪木取が歌った琉歌は4首である。1首目では、「あばら屋に月や泄る、雨や降らねども我袖濡らち。」と、森川の子が住んでいるあばら屋に月の光が漏れ、外は雨が降っていないが、私の服の袖は涙で濡れているとし、森川の子の贫しさと心の侘びしさを表している。2首目でも「矶ばたの者やれば、朝夕さゞ浪の音ど闻きゆる」と、ここでも森川の子が首里から远き离れた浜辺で、家族と离れさびしく一人で、朝夕さざ波の音を闻いている情景を歌っている。3首目では「つれなさや思ひ身に余て居れば、さやか照る月も涙に昙て。」と、森川の妻子対する思いが募り、自らの苦しい思いで身が张り裂けそうになり、照る月も涙でかすんで见えないといい、続けて4首目でも「ながめればつめて思事や増しゆり、とてもかき昙れ夜半のお月。」と、月を爱でれば、常に思いだすのは妻子のことばかりで、あふれ出る涙で月がさらに昙るといった、寂寥感漂う内容となっている。

  こうした薪木取が森川のことを荡々と思い咏う琉歌の部分は、演戏故事では汉訳されていない。しかし、この部分、最后に再会する场面につぐ、见せ场といっていい。ここでは、森川が妻子と远く离れていても、士族としての気风を保ち妻子を思いながら、日々の暮らしをしている人物として表象されている。この场の情况は琉歌でしか表现されていないことから、册封使は歌の内容については理解できていない。演戏故事では、このように台本の内容を訳してない部分も少なからず存在する。

  この部分については、森川の家族に対する思いが込められており、汉訳の必要性があるように见える。しかし、実际汉訳がなされていない。こうした组踊台本にのみ记された内容は、组踊の聴きどころとも考えられ、薪木取が森川を思い、寂寥感漂う歌を咏む部分に演者としての技量が求められたともいえよう。

  その后薪木取は、森川の行方を知らないと乙樽に述べた后に、乙樽と鹤松の変化に気づき、塩屋田港という大宜味间切でも船が行き交い色々な人がいるため、そこにいるのではないかと述べて去っていく。

  この薪木取は组踊において「间の者」と呼ばれ、百姓身分でありながらも、组踊の展开において重要な手がかりを主人公へ教える役割が与えられている。薪木取の言叶に道かれて、物语はクライマックスへと繋がって行く。

  2 演戏故事に记された「花売の縁」における大宜味间切―津波村に关する検讨から―

  「花売の縁」における森川の子と妻子の再会の场所に「大宜味间切」が设定されている。本节では以下、この「大宜味间切」について検讨してみたい。

  ①森川の子の住む大宜味间切津波村

  大宜味间切津波村にいた森川の子の様子について、演戏故事では以下のように记している。

  一日传闻森川在大宜味郡津覇村煮咸以营日食

  【ある日、人づてに、森川が大宜味间切津覇村で塩作りをして日々暮らしていると闻いた。】

  この部分、组踊台本の乙樽の词章においては、以下の通り记されている。

  我身や御檀那の御恤に逢て、朝夕の暮し方不足无いぬあれば、兼ねて约束のごと寻ねらんすれば、行卫わない知らぬ。此顷に闻けば、大宜味津波をとて盐たきやり日々の暮ししゆんてやり语れべのあれば、知らしべのあれば、なし子つれ立ちやり、とまいて行きゆん。

  【私は御旦那の御恵みに会って朝夕の暮しぶりも不足がない。(暮らしぶりが良くなれば再び家族一绪に暮らすという)约束をしたが、(夫を)寻ねようと思っても行方がわからない。この顷、闻くところによると、(森川は)大宜味间切津波村で塩を炊いて日々の暮しをしているとのことである。我が子と一绪に寻ねて行こう。】

  演戏故事·组踊台本双方ともに、森川の子が大宜味间切津波村で制塩していることを记している。ここで、近世琉球における大宜味间切での制塩の様子を见てみよう。仲地哲夫は近世琉球での制塩について、那覇の舄原で大规模な制塩が行われており、「塩代米」として米での年贡の代替として用いていたことを指摘している。制塩を行っている地域について、1728(雍正6)年の「御财制」に、国头方の塩の上纳に关して以下の记述がある。

  浮得上纳

  一塩弐千四百三拾八俵四升五合一俵に五升入

  国头方塩屋拾九敷、小塩屋弐敷上纳

  一塩屋一轩ニ而、壱ヶ月之上纳五斗一升余、小塩屋四斗一升余相纳り候、塩屋一轩年中之焼出、百弐拾三石も有之候得者、弐拾分之一程之上纳ニ而可有之候

  この记録には、国头方における王府への塩の上纳量が记されており、国头で塩が租税として精算されていたことがわかる。では、近世琉球において大宜味间切の百姓らは塩を租税としてどのように纳めていたのだろうか。「取纳座国头方定手形」には、以下のように记されている。

  一銭三贯五百三拾弐文、

  纳塩五升八合八勺六才、

  但、闰月有之年は一ヶ月分重、

         大宜味间切津波村百姓

            模 合 塩 浜

  右此节、新竿入上木御高取立定代銭にて、十二月限上纳被仰付候间、来年より年々致取纳候様、可申渡事。

  この史料は、「御财制」の作成年代とは时代差があるが、道光五(1825)年に取纳座から国头方に対して塩田を検地した上で、大宜味间切津波村における王府への塩の征収分を决定する内容となっている。

  森川の子が塩炊きをして日々の暮らしを立てようとした大宜味间切津波村は実际に存在し、组踊を创作するにあたり、琉球王国当时の実态を组踊に投影していたことがうかがえる。フィクションによる场所の设定がなされたわけではないことを指摘しておきたい。

  3 森川の子と乙樽·鹤松の再会の场に见られる心理的表象

  ①森川の子の妻子との再会

  森川の子は、大宜味间切で妻子と再会するが、その际に自分のあばら屋に隠れてしまう。妻乙樽は、森川の行动に対し、避ける理由を寻ねる。その时の森川の子の心情を演戏故事は以下のように记している。

  森川子答曰汝何出此言哉吾原不拟汝来今苍卒寻来我身凋残如此固耻对面相见故暂在此遮羞

  【森川の子は、「お前はなぜこのようなことを言うのか。お前が来ることは想像もしていなかった。今突然寻ねてきて、我が身はこのように低落し、対面し互いに会うことを耻じらっている。ゆえに、ここでしばらく羞じらいを隠している。」と答えた。】

  乙樽は、上述したように、首里の有力士族の家の乳母として、衣食に困らず、饥えや寒さを凌ぐことができ、不足无く暮らすことができている。乙樽は森川を探しだし、首里で子供と一绪にくらしたいという思いから、幼い子の鹤松を连れ首里から远く离れた大宜见间切に至り、やっと夫に会うことができた。しかし、ずっと案じていた妻子との再会が実现したのにも关わらず、森川は不运が続き、花売りに身を落とし、暮らしている自らの姿に耻じ、あばら屋に隠れてしまう。

  この再会の场面を组踊台本の词章は以下のように记している。

  森川の子

  今の寻ねごと梦やちやうも见だぬ。浅ましや此の身かにある有様になり果てゝ居れば、まこと妻子に面打向てい言叶のならぬ、あはてさまこれに、颜隠ち居ゆる。

  【森川の子

  今、寻ねて来るとは、梦や现でも见ない。浅ましいこの身はこのような有様までなり果てていれば、本当に妻子に面と向かっておられない。慌ててこれまさに颜を隠している。】

  上述したように、演戏故事の汉文訳は原则として组踊台本の词章に基づいて行われており、この部分も同じような内容が记されている。

  ②鹤松の再会の喜びと父·森川の子とのやりとり

  乙樽は続けて父亲に逢いたいがために鹤松が远く険しい山道を辿り、母と共に苦しい思いをしながら、やってきたことを告げる。演戏故事ではその时の森川の心情を、「聴汝等所言思汝等所行吾心弥耻吾情弥歓而多感厚意而己」と记し、森川の现状を耻じらう気持ちと同时に、复雑に再会の喜びが交错する心境を伝えている。

  さらに演戏故事の中で、鹤松は父の森川の子に対し以下の言叶をかけている。

  鹤松告禀森川曰未见父亲寐不安席食不甘味故不顾死活越岭过谷寻来这里幸今无恙相逢就像春梦一般只愿早回旧借永修素业

  【鹤松は森川に「(私は)まだ父亲を见たことがありません。不安で穏やかに寝ることも出来ず、食べ物もおいしさを感じることがありません。必死の思いで山々や谷を越え、ここに至り、いま无事に互いに会えたことは、まるで春の梦のようです。ただひたすら、早く旧籍(首里)に戻り、末永く(贫しくとも)士族の生业につくことを愿うだけです。」と言った。】

  鹤松は父がいない生活の中で、「寐不安席食不甘味」と、寝食ままならず、おいしさも感じないといった侘びしさを伝え、一方、必死の思いで山々や谷を越え、ここに至り、无事に出会えたことは、まるで春の梦のようだと述べている。続けて、鹤松は森川の子に対して「早く首里に戻り、末永く(贫しくとも)士族の生业につくことを愿うだけです)」と思いを告げているが、ここでいう「生业」とは、首里の无禄士族がおこなっていた星功を积み上げる王府に対する无给奉公のことを指しているのであろう。赤岭守は、近世琉球での无禄士族が星功を积み上げて萨摩への上纳品あつかう「心付役」になり、「渡清役」として莫大な役得を得るまで40年先までかかるなど王国の无禄士族の厳しい现状を指摘している。そのため、森川の子が首里にもどったとしても、扶持役につけるわけはなく、「生业」というのはそうした手作をし、内助の功を頼みにして星功を积み上げることをいっているのである。幸いにも母亲が乳母として何とか暮らしていける情况にあった。そうした母亲がいるから言える台词であった点ここでは留意しておきたい。鹤松はやっとの思いで会えた喜びを组踊台本の词章で以下のように伝えている。

  鹤松

  やあ父亲よ拜みぼしやうらきらしやあまり过ぎらゝぬ、母亲と二人命思はまて、知らぬ山国に寻ねやりおりて、今日拜むことや梦がやゝべいら。

  【鹤松

  やあ父亲よ。お会いしたい気持ちが募り、居ても立ってもおられず、母亲と二人で命がけで知らない山国を寻ねて、今日やっとお会いできたのは梦でありましょうか】

  鹤松が母亲と「知らぬ山国」を访ね歩きようやく父に逢えた喜びが述べられているが、そこには、演戏故事で记されているような首里へ戻ろうといった言叶が缀られていない。たとえ贫乏な生活をおくっても父亲に戻ってきて欲しいという切ない気持ちを表すことなく、舞台上では亲子の强い绊と家族爱を表出し、物语は展开していく。その鹤松の言叶に対して、演戏故事の中で森川の子は以下のように答えている。

  森川曰汝幼稚者多费心气是亦谁使然哉盖以被生于□(薄ヵ)福父母故也然昔相别时汝在赤子今看汝长成喜出望外吾心亦同汝情意

  【森川は「幼いお前に心配をかけてしまった。これはまた谁がそのようにさせたのだろうか。福の薄い父母のもとに生まれてきたからであろう。昔、别れたときにお前は赤子であった。今お前の成长をみられたことは思いがけない喜びである。私の心はお前の気持ちとおなじである。」と言った

  「吾心亦同汝情意(私の心はお前の気持ちとおなじである)」という言叶に、森川の首里に戻り家族一绪に暮らしたいという思いが込められている。

  この部分、组踊台本には森川の子の词章として以下のように记されている。

  森川の子

  あゝ、わらべあてなしの朝夕物思て、忧きくれしやしゆすも谁がしちやることが、果报も无いぬ亲に产つたる因果。やあ鹤松よ、赤子の时分别れやりをれば、あはれおもがほも梦现ごゝろ。かにある引合や梦やちやうも见だぬ。

  【森川の子

  ああ、童あてなしの朝夕の物思い、忧き苦しさは谁がしたことか、果报も无い亲に生れた因果である。やあ鹤松よ。赤子の时分に别れ、赤子の颜が梦のようである。このような引き合いが来ようとは、梦にも思わなかった。】

  组踊台本の词章と演戏故事の内容はほぼ同じである。しかし、组踊台本には演戏故事に记された「吾心亦同汝情意(私の心はお前の気持ちとおなじである)」が见られない。演戏故事のこの言叶は、上述したように「只愿早回旧借永修素业(早く旧籍(首里)に戻り、末永く(贫しくとも)士族の生业につくことを愿うだけです。)」という鹤松の愿いに答える言叶である。组踊台本の词章では记されていない、こうした言叶は、演戏故事の中で、册封使に故事の内容の理解を深めるため加笔されたものとして捉えていい。そうした舞台上での心情说明を付加するのも解说书としての演戏故事の特征のひとつでもある。

  まとめ

  首里士族であった森川の子は花売に身を落とし、大宜味间切で日々不遇な暮らしを送っていた。森川の妻で士族の乳母となり、何とか生活する粮を得た乙樽は、子の鹤松をつれ首里から远く离れた北部の大宜味间切でやっとの思いで夫を探し出し、首里に戻り家族の団らんを再び筑くという家族の强い绊、そして家族爱を故事の基轴に据えるのが「花売の縁」である。

  演戏故事の汉訳は组踊台本の词章に则して行われていることから、演戏故事の内容については、台本とほぼ同じ汉訳がなされている。しかし汉訳が全て台本の词章と一致するとは限らない。上述したように、森川の子が、妻子と远く离れていても士族の振る舞いを忘れず、またひたすらに乙樽と鹤松を思う様子を謡う薪木取の琉歌の部分は、演戏故事では汉訳されていない。この部分は、あえて訳さなくても物语の展开の中ですでに状况は理解できることから、冗长になることを避け、演戏故事では细やかな汉訳がなされなかったのかもしれない。

  それとは逆に、森川の子が妻子と会った际に演戏故事に记された「吾心亦同汝情意(私の心はお前の気持ちとおなじである)」が组踊台本にはみられない。演戏故事に记されたこの言叶は、上述したように「只愿早回旧借永修素业(早く旧籍(首里)に戻り、末永く(贫しくとも)士族の生业につくことを愿うだけです。)」という鹤松の愿いに答える表现である。このように组踊台本の词章では记されていない表现が、演戏故事には加笔されている。この表现は舞台での展开を细やかに指示する组踊台本にあっても违和感はない。しかし、相互に交わされる登场人物の词章で、剧を见ている者が状况を理解できる设定が舞台上でなされているため、记されなかったのであろう。しかしながら、故事の说明をする演戏故事の史料の性质上、物语を展开させる重要な语りとして加笔されている。上述したように、舞台の音楽効果や立体的なビジュアルな表现を构筑することを目指す台本とは异なり、演戏故事は剧の筋を伝えることに重点を置く汉文の解说书であることから、情景描写にこのような差异が见られることがある。またそこが解说书としての演戏故事の特征のひとつであり、演戏故事と组踊台本との比较分析をおこなう际、そうした両者の文书としての性质に立脚した视点が重要となる。

  「花売の縁」では、故事の本筋とは异なるが、猿引と猿が登场し、娯楽性を高めるシーンがセットされている。组踊は4、5ヶ月にも及ぶ长い册封使の滞在中に挙行される演剧の娯楽性が表れている。そのため、故事のあらすじのみを辿るのではなく、娯楽性も付加されている点も组踊の性质を知る上で重要である。

  物语の展开を说明する解说书に「演戏故事」とタイトルを付けたことからも理解できるように、组踊は「故事」に关する演戏である。组踊「花売の縁」は、士族身分でありながら「下层民」に身を落としていく近世琉球における「屋取人」という士族人口の増加に伴う下级士族の社会问题を取り上げ、大宜味间切について実际の情况を描写する形で物语は展开していく。组踊「花売の縁」は、近世琉球における社会の「実态」と理想の「家族観」などの「脚色」を交えて上演されているといえよう。

  中国においては「女人の节义」も重要视され、时に皇帝が节义ある女人を褒赏し、褒赏された家の前には、それを称える牌坊が建てられたりしていた。组踊「花売の縁」を観剧した册封使は、十二年という歳月が流れても、ただ夫を思い、子を思う贞淑な女性として表象される乙樽に「女人の节义」を强く感じたであろう。组踊の多くが仇讨物、忠义ものであることから、これまでの研究ではそうした视点が见落とされている。豊见山和行は「御教条」により、「女人の节义」として夫妇が最后まで添い遂げることと父子の关系を取り持つ关系が重要であったと指摘している。组踊の中で、「花売の縁」は数少ない「女人の节义」を前面に押し出した作品であることにも注目したい。

  册封使が来琉中に、那覇では「评価贸易」という册封船でもたらされた货物の贸易が展开されていた。毎回、高く売りつけたい中国侧とそれを买い取る王府侧との间で商品価格をめぐって摩擦が生じていた。「道光十八年冠船付评価方日记」の道光十八(1838)年七月九日条に王府侧から册封使节団に対し、琉球が「穷寠小邦」であると述べ、我が国は困穷した小国であることを理由に买い取り価格を下げる交渉を执拗におこなっている。「花売の縁」の中では下级无禄士族が王府内で奉职することができず「屋取人」に身を落とし、乳母となった妻の女手で家族が支えられるという贫しい実态を见せている。组踊「花売の縁」は、そうしたイメージを特に强く抱かされる作品であるということも最后に指摘しておきたい。

  一方で、冠船芸能で上演された组踊を検讨するにあたり、近世中国における社会状况や様々な故事などをより深く検讨し、册封使が组踊をどのように観剧したのかを総合的に考察することを今后の课题としたい。

  参考文献

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  【新闻资料】

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  2.山里永吉「组踊雑感 「花売の縁」の作者(上)」1965.11.9、琉球新报、朝刊8面。

  3.山里永吉「组踊雑感 「花売の縁」の作者(下)」1965.11.10、琉球新报、朝刊8面。

  *本稿は、JSPS科研费16J02726による助成を受けたものである。
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