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琉球勤学生的老师——陈元辅之生平考释

  【中文提要】本文以陈元辅的『枕山楼诗集』、『枕山楼文集』、『枕山楼课儿诗话』、王登灜的『柔远驿草』『柳轩诗草』以及程顺则编纂的『中山诗文集』等作品集中的线索为依据,辅以相关的历史文献资料尝试描绘了陈元辅的人物像以及考证其人生履历。

  据推测陈元辅是顺治12年(1655)年诞生于福州的一个读书世家。其祖上似曾有考中状元之人。陈元辅从小即有过人的文学才华,9岁的时候即与竺镜筠相识15岁的时候又相交于林潭。康熙11年(1672)年17岁参加乡试不中、颇受打击。又逢三藩之乱福州府的乡试被迫中断直至康熙19年(1680)。不能参加科举这段时间。康熙15年(1676),陈元辅入正在福州驻屯的宁海将军喇哈达军幕,据推测应该是负责文书工作。之后康熙22年(1684)冬陈元辅策马游历湖北。

  康熙23年(1684)的冬天、陈元辅回到福州。正好当时程顺则随进贡使节赴京后回到福州。当时是程顺则老师的竺镜筠介绍二人相识。因此可以认为本身已经是琉球人老师的竺镜筠是陈元辅能够成为琉球人老师的重要契机。在那之后陈元辅与琉球人的交流与接触正式开始。除了程顺则以外,陈元辅也是周新命、梁得声、梁得济等琉球勤学人的老师。直至陈元辅去世、其与琉球人的交往都没有断絶过

  陈元辅的诗集『枕山楼诗集』是康熙30年(1691)程顺则出资为其师出版的,并携其诗集传播到琉球、日本。师徒二人的关系紧密由此可见一斑。程顺则回国后、成为了琉球王国时代具有代表性的一代大儒。能有如此成就与程顺则勤学生时代,留学于福州,受其师陈元辅很大的熏陶不无关系。陈元辅自身虽然在科举上失败,并没有中举亦没能作官,但是可能因陈元辅两次入军为幕经历有一定的人脉关系的原因,康熙37年(1698)之前的某个时期被授予了侯补县丞之职。

  【关键词】陈元辅、勤学、程顺则、《枕山楼文集》

  【要旨】本稿では、陈元辅『枕山楼诗集』『枕山楼文集』『枕山楼课児诗话』、王登瀛『柔远駅草』『柳轩诗草』及び程顺则が编纂した『中山诗文集』などの文学资料を手がかりに陈元辅の人物像及びその生涯を描き出してみた。

  陈元辅は清の顺治12年(1655)に福州で生まれ、読书人の家で成长している。先祖には科挙に合格して状元を得た人物もおり、年少の顷から文才に优れていた。9歳にして27歳の竺镜筠、15歳で林潭と知遇を得ている。康熙11年(1672)、17歳の时、科挙の郷试を受験して落第し、意気消沈した青年时代を过ごしている。康熙12年(1673)、呉山桂が乱を起こし、康熙15年(1676)に至って三藩の乱が全面的に勃発すると、福州府の科挙が中断され、康熙19年(1680)に至るまで陈元辅は科挙を受験する机会を失している。

  康熙15年(1676)、陈元辅は福州に驻屯する宁海将军喇哈达の幕に入り、彼の従军期が始まった。以降、康熙21年(1682)、宁海将军の満州军団が撤収して北京に戻るまで陈元辅は宁海将军の幕で务めていた。その后康熙22年(1684)の冬、陈元辅は湖北の游歴に発った。

  康熙23年(1684)の冬、福州に帰り、ちょうど北京への进贡任务を终えて福州に戻った程顺则と出会っている。陈元辅が程顺则との知遇を得たのは、康煕23年の冬に柔远駅で教师を务めていた竺镜筠を介してであった。陈元辅が琉球勤学の师匠となる契机を作ったのも竺镜筠であったと考えていい。その后、陈元辅と琉球人との本格的な交流が始まる。程顺则以外に、周新命、梁得声、梁得済などの琉球勤学人が陈元辅に师事している。以降、陈元辅が亡くなるまで琉球勤学人との交流は絶えることはなかった。

  陈元辅の诗集『枕山楼诗集』の初版は、康煕30年(1691)に福州で出版されているが、これは程顺则が帰国前に出资して出版したものである。そこに二人の交流の深さを见ることができよう。程顺则は帰国后、琉球王国を代表する儒学者となる人物である。勤学として柔远駅滞在中、陈元辅から大きな薫陶をうけたことはいうまでもない。陈元辅自身は科挙に失败し、挙人の资格を得ることなく、官吏として立身出世をすることはなかったが、康熙37年(1698)顷に候补县丞といった官职についていたことが确认できる。

  【キーワード】陈元辅、勤学、程顺则、『枕山楼文集』

  はじめに

  清代、琉球王国からは多くの「勤学」と呼ばれる留学生が派遣されているが、従来の歴史文献资料では、勤学が福州で留学期间にどうような学习生活を过ごしたのか、よくわかっていない。家谱资料にも往々にして「为読书习礼事(読书习礼の事の为)」とのみ记しているだけである。また福州留学中に、どのような人物に师事していたのかも、ほとんど知られていない。その中で、陈元辅は幸运の一人であるといえる。少なくとも彼の名前は后人に知られており、彼の诗文を后人が読むこともできる。彼の弟子の一人は琉球王国时代において唯一の大儒学者である程顺则である。陈元辅の著作は中国ではほとんど知られず、日本においてその存在が确认されている。彼の著作は四种で计21点の版本が刊行されている(付録1「陈元辅著作保存状况表」参照)。また、彼は书家としても知られていた。『妙迹図録·汉画部』に陈元辅の草书の书作が収録されており、それには高い评価がなされている。『妙迹図録·汉画部』では陈元辅について、以下の様に绍介している。

  陈元辅字昌其,闽中人,后补县丞。康熙己巳使琉球,有枕山楼集、中山诗文集,昌其又有枕山楼诗话能得诗中三味矣。(陈元辅、字は昌其、闽中の人、県丞に补う。康熙己巳琉球に使する。枕山楼集、中山诗文集、又枕山楼诗话があり、能く诗の中で三味(奥义)を得る)

  『妙迹図録·汉画部』の陈元辅に关わる记载は『民国闽候県志』より详しい。しかし、その中の「康熙己巳(1689)使琉球」という记録は误伝である。この书は明治42年(1909)に出版されているが、陈元辅の『枕山楼集』、『枕山楼诗话』、『中山诗文集』の中の诗文や彼の书は日本ではかなり知られていた。「陈元辅の伪笔ご鳗の食损じ」には、明治4年(1871)、西郷隆盛が萨州における某氏所蔵の陈元辅の诗巻を爱し、外の藩邸で常に离さず临书していたことが记されている。また、『妙迹図録』に著作として「中山诗文集あり」と记しているが、『中山诗文集』は陈元辅の著作ではない。『中山诗文集』には彼の诗一首·序文·跋文合计6篇が収録されており、他にもまた「程大母恭人伝」「征诗送别引」「指南広义序」などの琉球人に关わる文章が见られる。

  勤学师匠の中で作品が残り、このように日本でも知られている人物は陈元辅以外にいない。しかし、陈元辅の生涯についてはほとんど知られていない。陈元辅は布衣(官职に就いてない知识人)であることから、歴史文献资料から陈元辅の生涯を描き出すことには限界がある。

  先行研究において陈元辅に关わる研究は、上里贤一の「陈元辅の汉诗と琉球―『枕山楼诗集』を中心にして」が嚆矢であろう。その中で、上里は陈元辅の作品集である『枕山楼诗集』を取り上げ、陈元辅と弟子の程顺则との关系、そして『枕山楼诗集』に収録された琉球人に关わる诗を解釈をつけて绍介している。

  陈元辅については、清代福州の人物で程顺则などの琉球勤学人の师匠であることは知られているが、上述したように、歴史文献史料が限られ、先行研究において陈元辅の人生履歴に关してはほとんど研究がなされていない。しかし、陈元辅に关わる文学资料を通じて、陈元辅の人生轨迹を描くことは可能である。本稿では、そうした文学资料を駆使して、彼の生涯を検讨することにする。他に蒋寅の「东瀛读书记」等では、陈元辅の『枕山楼课児诗话』の成立年代、本の概要について绍介していることから、そうしたこれまでの研究成果を踏まえ、陈元辅の作品についても考察してみたい。

  一、陈元辅に关する资料について

  管见の限り、陈元辅が何らかの形で关わっている、あるいは彼の足迹の手がかりとなる资料には以下のものがある。

  ①『枕山楼文集』:陈元辅の散文集

  ②『枕山楼诗集』:陈元辅の诗集

  ③『枕山楼课児诗话』:陈元辅の作诗指南书

  ④林潭『晩香园梅诗』:陈元辅の序文

  ⑤王登瀛『柔远駅草』:陈元辅に关する诗文

  ⑥『中山诗文集』:陈元辅の诗文

  ⑦「程大恭人伝」:陈元辅が记した程顺则の母の伝

  ⑧「征诗别引」:『程氏家谱』に见える文

  上记の史料の中で、陈元辅の生涯を知る最も手がかりを得る重要な资料は『枕山楼文集』である。まず该着について说明することにする。

  1『枕山楼文集』

  『枕山楼文集』(以下『文集』と略称)の初版本は、康熙31年(1692)に福州で自费出版されている。『文集』は、杨昌任と王化纯による序文2篇と、陈元辅の散文15篇、诗5首を掲载している。まず序文の着者であるが、杨昌任がどのような人物であるのか详しい経歴はわからない。だが杨序等の断片的な记述から、彼は陈元辅と姻戚关系にあったことが分かる。また、陈元辅に息子がいたことも、この杨序から确认できる。王化纯は2篇目の序文の执笔者である。王化纯は康煕年间、闽県学の贡生であった。つまり、王化纯は国子监に入ったことがある人物である。その学歴は挙人に挙げられたことに相当する。しかし陈元辅とどのような关系があったのかはよく分からない。『文集』に「与周太学书」、「蔡述亭传」「僻耽集序」が掲载されており、これらの文章から陈元辅に关する情报が得られる。さらに『文集』には陈元辅が程顺则を忆う诗5首が掲载されている。のちに林潭がこの5首に注を付けている。

  2『枕山楼诗集』

  『枕山楼诗集』(以下『诗集』と略称)は、陈元辅の诗集であり、初版は康煕30年(1691)に福州で出版されている。これは『文集』と异なり自费出版ではなく、程顺则が帰国前に出资して出版したものである。郑宗圭と林潭が序文を寄せており、陈阮辅の汉诗121题、179首を収録する。康煕12年(1673)から康煕30年(1691)までの约18年の间の作品を収めている。『诗集』は作成时期を「军幕の时期」、「湖北の游歴期」、「勤学の师匠期」の3つに区分することができる。

  「军幕の时期」の作品は康煕12年(1673)の三藩の乱勃発后、康熙21年までの11首がそれにあたる。「湖北の游歴期」の作品は康煕22年(1683)の冬、湖北省で数カ月をかけて歴游した时期のもので、27首を数える。康熙23年以降の「勤学人の师匠期」の作品は诗集の四分の三を占める。『诗集』はおおむね年代に従って若い时期から晩年の诗という顺序に沿って掲载されている。しかし、厳密に年代顺になっているわけではなく、晩年(康熙30年<1691>)の作品」であるが、『诗集』の前半部分に掲载されているのもある。

  序文の着者の一人である郑宗圭は、『乌程県志』によれば、字は圭甫、号は瞻亭、福建闽県の人で、明の万暦34年(1606)に生まれ、崇祯壬午十五年(1648)に挙人となり、清の康煕元年(1662年)に浙江乌程県の知県に任じられている。『福建通志』には「沉酣经史、着有读史卮言十卷、山园堂集、续读史数篇。(经史に沉酣し、著作に『读史卮言』十卷、『山园堂集』、『续读史』の数篇有り。)」という记载がある。ここから郑宗圭は歴史、経典の読解に优れていたことが分かる。郑宗圭は康煕40年(1701年)に95歳で逝去している。『福州府志』にも彼に关する记载があるが、彼と陈阮辅との关系はよく分かっていない。

  第二篇の序文の作者は林潭である。字は二耻、号は二耻斎、长楽県の高详里の人で、明末の「秀才」であった。林潭の経歴はわずかに『长乐六里志』に言及されているのみである。明が灭びた后、科挙をあきらめて家族を伴って「大象山」で隠遁生活を送っていた。そのとき、の「大疤掌」が乱を起こし、林潭を除く一家全员が诱拐されるという事件が発生している。诱拐された彼の妻·陈氏は美人であったが、土匪にはおもねることなく、贼军に反抗し杀されている。

  林潭は琉球人の师匠ではないが、彼もまた琉球人との关系が深かった。林潭は特に程顺则と交友が深く、『中山诗文集』に林潭が程顺则に赠った诗を収録している。陈元辅の作品集を出版する前に、程顺则が林潭に序文を寄せるように依頼している。林潭の『晩香园梅诗』も、また程顺则によって康熙60年(1721)に福州で刊行され、后人に知られるようになる。

  陈元辅と林潭の交流は、康熙9年(1670)、陈元辅15歳の顷に始まっている。林潭は明末の「秀才」で竺镜筠とほぼ同世代である。陈元辅と林潭の年齢差は二十歳ほどあったと思われる。林潭は隠逸しており、福州府城で定住することがなく、たまに福州府城にやって来る程度であった。康煕13(1674)、14年(1675)の二年间、林潭は福州の乌石山のあたりの书院にいたため、この间に林潭と陈元辅は交游し、お互いの胸中を打ち明け合う间柄になった。その后、康熙15年(1676)の秋、林潭は玉山で仮住いした后、峡江で隠遁生活を送っている。康熙20年(1681)に林潭は戦火を避けるために、いったん福州城に入って陈元辅の家に寄寓している。『枕山楼诗集』には林潭にかかわる诗が6题7首収録されている。陈元辅の友人の中で最も多い数である。二人は互いに汉诗集に序文を寄せたり、诗作に详しく解釈や评をつけることがあった。そうしたことからも、林潭と陈元辅の交友の亲密さが窥える。

  3『枕山楼课児诗话』

  『枕山楼课児诗话』は日本で多くの版本が见られ、现在11种の版本の存在が确认されている。これらの版本は康熙31年~康熙35年(1692-1696)の间に成立したと考えられる。书の题目から见る限り、この本は子息に诗を教えるテキストである。程顺则は康熙37年(1698)に、この本に出会い、同年、程顺则·杨丹厳·毛允和·郑克文·陈楚水·蔡天水など琉球勤学人が资金を出して福州で出版している。初出版の版本に福州儒学司训である戴翼が序を寄せ、程顺则は跋文を寄せている。后に旧木版がちたため雍正3年(1725)に重刻して再出版している。重版の际に、曽歴が跋文を加えている。曽歴の跋文は、陈元辅の逝去の年代を决めるのに参考となる重要な记事を含んでいる。

  曽歴は康熙41年(1702)に小船通事として福州に来た时、初めて『枕山楼课児诗话』を入手し、康熙47年(1708)に进贡副使として福州に来た际に、陈元辅は自らそれを用いて曽歴を指道している。陈元辅は康熙37年(1698)以降、汉诗创作を勤学人に教える际、自らの著作を用いて勤学人に汉诗创作の指道をしていたと考えられる。この本は汉诗创作のため初心者に向けた入门书であったと考えていい。前半に、诗の平仄法を记し、后半に诗の规则49则を载せている。

  4『晩香园梅诗』

  国立国会図书馆に林潭の『晩香园梅诗』が所蔵されており、この诗集には、篇首に陈元辅の序文、编尾に王登瀛の跋文と林潭の六首の梅诗が収録されており、その六首诗に陈元辅が注釈をつけいる。诗集のほとんどを陈元辅が记述しているが、该着は陈元辅と林潭の共着とみなしていいだろう。陈元辅の序文に「康熙戊午仲冬」とあることから、この诗集は康煕17年(1678)以后に成立したものであることが分かる。

  5『柔远駅草』

  『柔远驿草』は、琉球勤学人のもう一人の教师であった王登瀛の诗集である。现存している诗集は『柔远驿草』と『柳轩诗草』の二つの诗集が合册になっているものである。『柔远驿草』は林潭の序文に「康熙甲戌歳小春」と记されていることから、诗集が康煕33年(1694)に成立したことが分かる。『柔远驿草』は主に柔远駅周辺の风景や琉球人とのふれ合いを描いている。『柔远駅草』は楼东十景の10首、楼西十景の10首を掲载しており、计20首の诗が収録されている。

  『柳轩诗草』には琉球人に关わる诗が多く、それらの作品は康熙33年(1694)、34年(1695)に作られたものが多数を占める。程顺则を偲んで作成した「怀程宠文」という诗は康煕37年(1698)のものであると思われる。『柳轩诗草』の成立时期は『柔远驿草』より遅く、诗集は康煕36年(1697)6月に程顺则が帰国した后、成立したものと考えられる。

  「四本堂诗文集序」に、「癸酉槐黄归自庐岳,因受刖为诸及门所留设铎于琼河柔远驿楼,日与诸子谈经染翰(癸酉<1693>の科挙试験时、私は庐山から帰った。郷试に失败し友人や门生を留めて柔远駅で教え、毎日、诸君と四书五経を讨论したり诗を作ったりしていた)」という记述があることから、康熙32年(1693)の秋、王登瀛は癸酉科郷试を受験し终えて勤学の师匠を始めている。『柔远駅草』の王登瀛の序文には「歳甲戌,余别业其楼。风晨月夕,得与金浩然、周熙臣、程素文、郑克文诸子凭眺江山。东则有涌泉石槁诸胜,西则有莲峰双塔诸奇(康熙甲戌年、私は柔远駅で、朝夕、金浩然·周熙臣·程素文·郑克文らと江山を眺めた。楼の东に「涌泉石槁」などの名胜があり、楼の西に「莲峰双塔」などの名胜がある。)」と书かれている。王登瀛の『柔远駅草』は32题40首の诗を収録している。その内16首は琉球人に关わる诗である。この诗集から、王登瀛が柔远駅で泊まって金浩然、周熙臣、程素文、郑克文などの勤学と诗を咏んだり、柔远駅近くの景色を鉴赏したり、また景胜の地を访れたりしていたことが知れる。たまに、酒を携えて柔远駅の勤学らを访ねて夜遅くまで饮み、诗文を作ったりすることもあった。『柔远駅草』は、柔远駅における琉球人と清の诗人の交流の実体を知る贵重な诗集の一つである。

  康熙35(1696)の冬、程顺则は北京への进贡大通事として赴き任务を终え福州に到着し、王登瀛と知遇を得ている。后に康熙60年(1721)、王登瀛は程顺则の依頼により『晩香园梅诗』に跋文、『中山诗文集』に序文を寄せている。王登瀛は陈元辅より长生きしており、雍正3年(1725)まで柔远駅で师匠として活跃していたことが资料で确认できる

  王登瀛の『柔远駅草』には陈元辅に关わる诗が4题9首収録されている。一方、陈元辅の『枕山楼诗集』には王登瀛に关わる诗が仅か一首のみである。『枕山楼诗集』は康熙30年(1691)に成立したものであるが、この前に王登瀛は中国各地を歴游しており、福州を留守にしていなかった。王登瀛は勤学の教师になる前、すでに陈元辅との关系で柔远駅に出入りしており、王登瀛の『柔远駅草』は、康熙30年(1691)以降の作品が半分以上占め、上述したように陈元辅に关わる诗が多い。これは康熙32年(1693)から王登瀛が琉球人の教师を务め、以来、陈元辅との交流が深まっていたことを示している。

  以上の三种の资料の最后の页には「昌平阪学问所」と「文化甲子」の印があることから、これらの资料はもともと文化甲子年(文化元年1804)、に「昌平阪学问所」に収められていたものであることかが分かる。昌平阪学问所は寛政2年(1790)、神田汤岛に设立された江戸幕府直辖の教学机关であり、现在、原本は国立公文书馆に収められている。

  6『中山诗文集』

  『中山诗文集』は、陈元辅と交流の深かった程顺则が编纂した康煕年间の琉球文人の作品集で、曽益、蔡铎、程顺则、周新命、程搏万等の作品を収録している。また、陈元辅が记した序文·抜文6篇及び排律诗1首があり、その他に琉球人が作った陈元辅に关わる诗4首が収録されている。康熙60年(1721)福州で初めて出版した。

  二、陈元辅の経歴について

  『中山诗文集』に「晋安陈元辅」の记载があることから、陈元辅の出身地は晋安(现福州市晋安区)であることが分かる。以下、『枕山楼诗集』(「林潭序」)『枕山楼课児诗话』(「戴翼序」)、「曾历跋文」)、『枕山楼文集』(「与周太学书」)、『晩香园梅诗』(「王登瀛跋文」)に基づき、陈元辅の経歴(生涯)について考察してみたい。

  1.陈元辅の生年と幼少期

  まず、陈元辅の生年についてであるが、『诗集』の林潭の序文に、「自余庚戌得交昌其,其时年方束髪(康熙庚戌年に私は昌其と知遇を得て、その时昌其は「束髪」の年になったばかりであった)」と记されている。「庚戌」は康煕9年(1670)である。「束髪」は古代、汉民族の男子が成童(15歳)に达して髪を头の上に结ぶことをいう(清になって辫髪を强要され「束髪」の惯习を禁じている)。15歳-20歳の间も「束髪」と称するが、「时年方束髪(その时、年齢は束髪したばかりであった)」という记述から、陈元辅が当时15歳になったばかりであることを确认できる。そこから逆算すると、陈元辅は清の顺治12年(1655)に诞生したと推定される。

  「癖耽集序」によれば康熙23年の时点で陈元辅はすでに竺镜筠と20年ぐらい知り合っている。逆算すると康煕3年(1664)、陈元辅は9歳の顷に、当时27歳の竺镜筠と知遇を得ていることになる。陈元辅は幼少时から文才が际立っていた。康熙4年(1665)の秋、10歳の陈元辅は年齢の近い曽子浴と交游を始めている。后に曽子浴は陈元辅に连れられて柔远駅に至り、琉球人と交流した人物である。康熙年间、福州において、曽子浴のほうが陈元辅より名が知られていた。『竹间十日话』には、康熙年间、蒋衡、张铉、曾孙澜、陈润、陈登禧、黄元埈、萧楚、锺元声、曾沂、林侗、林鼎复、郑秉宪十二人の诗が世に知られ、当时彼らを「十二生」と称していたことが记されている。その中の曽沂は曽子浴のことである。曽子浴は曽士甲(『闽诗伝初集』の编纂者)の弟、候官の布衣で『潜园集』の著作がある。曽子浴は全国各地を游歴し福州に长期定住することがなかった。陈元辅が曽子浴のために作った4首の中の3首は「曽子浴を忆う」、あるいは「曽子浴を见送る」という内容であった。

  康煕9年(1670)、陈元辅はもう一人の琉球に关わる重要な人物である林潭と出会う。林潭は明末の诸生(秀才:清において「府学」「県学」の试験を通った人は「进学员」となり、秀才と称された)であり、陈元辅との年齢差は30歳ほどあったと思われる。陈元辅と林潭の交游は「忘年交(年齢差をも越える关系)」とされ、林潭の『诗集』序文には少年时代の陈元辅に关して以下の记述が见られる。

  (陈元辅)慎交游,爱颦笑,啸读一室,风雨寒暑弗辍。余间披其帷,相与较论售事业。觇其胸中眼中,若在峨眉天半矣。而月夕花辰时,借吟咏寄兴清新隽永,恍如月立空山水流残夜,无一点沉埃气。(<陈元辅は>人とのつきあいは慎重で、颜に表情があらわれず、声をあげて诗书を読み耽り、雨の日も、风の日も、夏も冬もやめることはなかった。私はたまに陈元辅の部屋のを开けて中に入って、について语り合うことがあった。彼の胸中や彼の眼中を覗くと、まるで彼の思いが山上の天空にでもあるようであった。月や花を爱でる时には、诗に思いを寄せ、清新な诗句は奥ゆかしく、まるで空山の间に月が上り、川が静かに流れる様子を眺めるように、俗世にまみれたところが一点もない。)

  少年时代の陈元辅は、子供には似つかわしくない落ち着きと、勤勉さを备え、また早熟で、高い文才を兼ね备えていたことが分かる。まさに神童というに相応しい少年だったということがうかがえる。

  2. 科挙の受験について

  林潭との交友を始めた二年后の康煕11年(1672)、壬子科郷试が行われた。この年、17歳の陈元辅は郷试を受験したものと考えられる。しかし、陈元辅はこれに落第し、落胆して客との面会を谢絶するほどであったという。亲友の竺镜筠でさえも会うことが少なくなった。

  その后、三藩の乱の影响で、福州府では郷试が九年间実施されず、陈元辅は、郷试を受験する机会を失ってしまう。『枕山楼文集』の中の「与周太学书」に以下の记述がある。

  嗟夫 博学宏词之聘、旷典难逢、郷举里选之条、古风已渺 (ああ、博学宏词(科挙)の选抜の大典には逢いがたく、典郷举里选(郷试)の规定の古风は已に遥か远くに去っていったようである。)

  これは、郷试に受験できずに、立身出世の道が闭ざされたことを叹く伤心した気持ちを読んだものである。実际、干隆『福州府志·选挙』の挙人の条には、康熙14年(1675)、康煕17年(1678)の挙人名簿が空白となっており、この间は科挙が行われていなかったことが分かる。

  また、『枕山楼文集』「癖耽集序」には、次のような记述がある。

  丙辰烽火烛天,羽书旁午。余因铩羽艺林,慨然慕弃繻生定远侯之为人。遂投笔仗,剑浪赋从戎。(丙辰の烽火は天にともり、羽书が频繁にやりとりされた。私は、艺林に铩羽したことで、慨然として官途を弃てて、定远侯の人となる。かくて笔を投げ、剑をもって浪赋し従军した。)

  「丙辰」は康熙15年(1676)のことで、この年は三藩の乱が全国的に広がり、反乱军がちょうど势いのあった时期にあたる。また、「铩羽艺林」は科挙に失败する意味であり、この句から康熙15年(1676)には戦火が全国に蔓延して、陈元辅は科挙に失败した后、科挙をあきらめて従军したことが分かる。この时、受験した可能性のある郷试は、康煕9(1670)年と11年(1672)のいずれかであると考えられる。

  仮に彼が康煕9年の庚戌科の郷试を受けたとすれば、当时の陈元辅の年齢はわずか15歳ということになる。15歳の年齢で通常では大学を勉强し始めたところで、康熙9年の庚戌科の郷试を受験した可能性は薄い。

  よって彼が受験に失败したのは、康煕11年(1672)の壬午科の郷试であると推察される。その后、康熙19年(1680)に福州で郷试が开かれているが、これに陈元辅が受験したかは不明である。陈元辅が科挙の挙人の资格を得ることはなかった

  3.军幕の时期について

  次に、「与周太学书」と『枕山楼课児诗话』の戴翼の序文の记述に基づき、陈元辅の従军期について考えたい。まず「与周太学书」には以下の记述がある。

  前闻宁海元戎拔擢多人、阁下恩台求贤若渴所以击楫渡江拜于马首。(先に、宁海元戎、多くの人

  を抜擢して、阁下はまた才能のある者を求めていると闻いたことから、私は江を渡って军门に拝し

  て従军した)

  文中の「宁海元戎」は、宁海の军队を意味する。『清史稿·圣祖本纪』の十五年条に「宁海将军贝子傅拉塔卒于军中(宁海将军贝子付拉塔は军中にて死去す。)」とあり、「宁海」とは「宁海将军」を指している。「宁海将军」は「傅拉塔(福拉塔)」と呼ばれ、爵位は「贝子」にあたり、皇帝の宗室である。康煕13年(1674)、耿精忠は福建総督·范承谟を捕えて反乱を起した。康煕帝は康亲王を奉命大将军に任命し、宁海将军·傅拉塔と共に耿精忠を镇圧するよう命じる。その后、康煕15年(1676)耿精忠が投降して康亲王·杰书が福州城に入った。同年冬、宁海将军は疫病で死去している。

  また『枕山楼课児诗话』の戴翼の序文には以下のようにある。

  元戎喇公延之、帷幄中以军功叙録、提军张公征聘入幕以国士待之。(元戎の喇公がこれを延べ、野営で军功を记録し、提军·张公が招聘し国士としてこれを待つ)

  この记述によって陈元辅が「元戎の喇公」に采用され、宁海军に従ったことが分かる。しかし、「与周太学书」の记述と、『枕山楼课児诗话』序文における、宁海将军の名前には龃龉があり、前者では「傅拉塔」となっているが、后者では「喇公」となっており、両者は一致しない。

  『清史稿·列伝·喇哈达』によると、もとの宁海将军である傅拉塔が亡くなった后、后任に喇哈达をあて、宁海将军としている。よって「喇公」は「喇哈达」であることが分かる。この役职の交替は、陈元辅の従军时期に行われたため、「与周太学书」の记述と『枕山楼课児诗话』序文の记述は矛盾しない。それで、丙辰康煕15年(1676年)、陈元辅は喇哈达に采用されて军幕僚となったことが分かる。

  では、なぜ陈元辅は従军したのであろうか。康煕11年(1672年)、科挙に失败した陈元辅は意気消沈する。『诗集』の「林潭序」によると「昌其癸丑(康熙12年1673年)以后,诗多感怆牢骚,犹之少陵在曲江夔府诸作,一字一泪无非以遇与心违,怀才莫展耳(昌其の癸丑以后、诗の多くがたましいを失ったようで落ち着かず、まるで少陵の曲江夔府に在っての诸作のごとく、一字一泪するようで、遇するもの心と违い、才を怀いていても、それを発挥することができないでいる」とある。康煕13年と14年、林潭は福州の第一山(乌石山)で学问を修めていたため、近邻の陈元辅と亲しく交流することができたようであるが、この时期、林潭によると、陈元辅はある时は梧桐の下で琴を弾き、ある时は山に登り、川を渡って友达と宴を开き、ある时は书物を焼いて、砚を砕いて号泣することもあったという。この时期、陈元辅は伤心し気持ちの浮き沈みが激しい状态にあった。つまり、科挙试験の失败は陈元辅に与えた消极的な影响が大きかったとうかがえる。

  さらに康煕15年(1676)、戦争が激しく続き、陈元辅の周りの友人はみんな官府に入って公务に従事していた。陈元辅はただ友人の赴任を祝うために诗文を作って赠るだけであったという。科挙の失败の后、自己も功绩を切に望みて友人の影响も重なりこうした状况のなかで、宁海将军への従军を募る知らせを闻きつけ、陈元辅は応募するに至った。この时、陈元辅は21歳であった。

  同年の3月、呉三桂が衡州で帝を称して乱を起したが、8月に病死し、これ以降、天下の趋势は清朝に向かっている。

  4. 三藩の乱后の足迹

  ここでは「与周太学书」と「癖耽集序」に基づき、陈元辅の三藩の乱后の足迹について考察する。

  康熙20年(1681)、清军が云南省城を破り、世孙呉世璠が自杀して三藩の乱が终わる。康煕15年から康熙22年にかけての八年间、従军といっても武器を持って戦うのではなく、陈元辅は宁海将军喇哈达の幕府で文书を扱う仕事に従事していた。康熙16~19年、宁海将军は军队を率いて福建省内の反乱を平定している。康煕21年に、満州军撤収の命が出て喇哈达は北京に帰っている。その后、陈元辅は康煕22年(1683)に游歴に出ている。

  康熙22年(1683)の冬、陈元辅は湖北省への旅に出かけた。彼は福州、闽清、龙岩州、南昌、九江、武昌、仙桃、天门を経て湖北省帰州の丹阳に至るまでの约1500キロメートルの道程を歩き、その行程で27首の诗を作っている。そのうち、陈元辅は天门県で8首の诗を作っていることから、天门県での滞在は长かったものと考えられる。もともと、陈元辅は湖北の游歴が终わってから北京に行くつもりであったが、旅费不足で福州に戻ることを余仪なくされた。ゆえに、陈元辅は湖北の帰州まで进んでいたが、天门に引き返し、天门でしばらく滞在し、その后福州に戻っている。福州から湖北までの3000キロの往复の道のりに约一年かけたと推测される。陈元辅はこの间、景胜の地を巡り、湖北の文人とも交游している。陈元辅は天门県で福州同郷の林成琏の家に寄寓していた。林成琏は琉球人とも关系がある人物である。『中山诗文集』に林成琏の程顺则に赠った诗が収録されている。陈元辅が湖北に行った时、林成琏は天门県の干滩市で巡検使の职についていた。天门県で陈元辅は锺惺と谭元春の祠堂を拝谒し、天门県の有名な文人である邹山父子、沔阳州判の陆琬とかなり亲しく交流している。

  5.琉球人の师匠としての陈元辅

  陈元辅が程顺则との知遇を得たのは、康煕23年(1684)の冬に竺镜筠を通じてであろうと考えられる。程顺则は、その年に进贡使节として福州から北京へ行っているが、上京直前に竺镜筠の门をたたき面识を得ている。陈元辅はその年に福州に戻り、陈元辅もまた当时、湖北省から福州に戻っており、ちょうど竺镜筠から自分の作品集である『癖耽集』の序文を书くよう依頼されている。こうした状况から、おそらく竺镜筠を介して陈元辅は程顺则を绍介されたと思われる。この年から、陈元辅は正式に琉球の勤学人の师匠を务めている。陈元辅は29歳、程顺则は22歳であった。康熙26年(1687)程顺则は帰国するまで陈元辅に约三年间师事している。陈元辅は后に、梁得済、梁得声、陈鲁水、金浩然、周新命、蔡肇功などの教师となっている。

  陈元辅は琉球人の教师を务めている间の康熙27年(1688)に、一时教师の职を辞し、泉州の「提军张公」の幕府に入っている。「张公」とは泉州に驻屯する福建陆路提督军门张云翼であろう。陈元辅が泉州に向かう际、王登瀛は「送陈昌其之温陵张元矦幕」という诗を送っている。この诗题から张元矦の身分を确认することができる。唐以前、泉州地域は「温陵」と呼ばれていた。周代において诸侯の长が「元侯」と呼ばれていたが、后に「元矦」は省レベルの地方の大官僚を指すようになる。つまり、陈元辅は泉州の张姓の大官僚の幕に入ったことがわかる。『枕山楼课児诗话』の戴翼の序に「提军张公征聘入幕以国士待之」とあり、陈元辅を雇った张公は泉州の提军であったことが分かる。干隆『泉州府志』によると、省レベルの武职に福建陆路提督军门という职名がある。「福建陆路提督军门」(以下提军と)の略语がまさに「提军」である。「提军」は武职の従一品であり、张公はさらに「元矦」という位にある大官僚であった。「提军」に就いた张姓の人は「张云翼」「张起云」の二人のみである。「张起云」は雍正年9年(1731)に「提军」に就いていることから、この人は陈元辅を雇った张公ではない。「张云翼」は康熙25年(1686)、「提军」を授けられている。おそらく张云翼が张公であろう。この人はただの武将ではなく文人士大夫で、诗酒で文を论じ、さらに囲碁をやりながら诗を作ることもあったようで、『式古堂诗文集』が后世に伝わっている。「儒将(学者の风格のある将军のこと)」であり、「武将」でもある张云翼が文人である陈元辅を重视して雇ったものと思われる。

  一方、张云翼『式古堂集』の「鼓山记」によると、张云翼は康熙26年(1687)の九月に公务のために福州に行っている。どういったきっかけで陈元辅は张云翼と知遇を得たのかは知れないが、陈元辅も自ら「自荐书」を书いて张云翼に提出している。そうしたことからも、陈元辅が康熙27年(1688)に泉州の张云翼の幕に行ったことが确定できる。一方、康熙27年(1688)、程顺则は一回目の中国派遣を终え帰国しているが、陈元辅も张云翼の幕で长くは勤めず、康煕28年(1689)の春以前に福州に戻っている。大官僚とも知遇を得、幕での経歴を有する陈元辅は一般の福州の文人ではない。陈元辅は官途において立身出世をすることはなかったが、后に「后补县丞」を授けられている。この「后补县丞」は実务をともなわない职、名誉称号に相当する。陈元辅が记した程顺则の母の伝记である「程大母恭人传」の署名も「吏部侯补县丞」である。

  6 陈元辅と琉球人の交游について

  康熙23年(1684)に、陈元辅は竺镜筠を介して程顺则との知遇を得て琉球人との交游が始まる。以下、『枕山楼诗集』、『枕山楼文集』、『枕山楼课児诗话』、『四本堂诗文集』に基づき陈元辅と交流のあった琉球人(18人)をまとめてみる。

  陈元辅と交流のあった人物の身分は、进贡正使·进贡副使·接贡存留通事·存留通事·小船都通事·官生·勤学である。その中で勤学が最も多い。勤学は福州に修学目的で来ており、王府によって7年の修学が认められており、长期にわたって陈元辅に师事していたものと考えられる。そのため、陈元辅と勤学人との交流を示す作品に现れる感情は进贡使节や官生とは异なったものがある。进贡正使·进贡副使·接贡存留通事·存留通事·小船都通事·官生は福州滞在中、柔远駅(福州琉球馆)での起居が义务づけられていたことから、教师として柔远駅に出入りしていた陈元辅との交流する接点があったのであろう。

  7. 陈元辅の家と家族について

  ここでは『枕山楼文集』の序文に基づき、陈元辅の家と家族について考察したい。

  『枕山楼文集』に収録されている「哭三叔文」に以下の内容を记している。

  「跻身庙堂,领城社,名登策府者,远不具论,即近而双山季山公两,擢巍科同膺显宦,卓卓表功列于一时」

  以上の内容によって陈元辅の门中、先祖の二人は科挙で状元を得てたようである。いわゆる、陈元辅は「书香门第」の出身である。

  そして陈元辅の家族についてであるが、子供が二人いたようである。陈元辅は杨昌任、戴翼の二人と姻戚关系を结んでいる。戴翼は福州府学の「儒学教谕(教谕は、清の府学、県学の教员のこと)」であった。陈元辅の子供の中に一人は、陈文雄である。『中山诗文集』には陈文雄の诗が収録されており、『枕山楼课児诗话』に彼の跋文が収録されている。

  康熙37年(1698)、陈元辅が程顺则に赠った赠言诗の署名は「候补县丞」で、前述したように「程大母恭人传」の署名も「吏部候补县丞」とある。科挙に失败した陈元辅自身は长く官途につくことはなかったが、康熙37年(1698)或いはそれ以前に候补县丞といった官职についていたことが知れる。

  8. 陈元辅の没年

  ここでは『晩香园梅诗』の王登瀛の跋文と『枕山楼课児诗话』における曽歴の跋文から陈元辅の没年について考证する。

  康熙47年(1708)、陈元辅は程顺则の殀折した子程搏万の诗集である『焚余稿』に序文を寄せている。これは陈元辅の最后の作品とみられる。康熙47年(1708)以后は、彼の作品の存在が确认できないことから、彼が亡くなったのは康熙48年(1709)以降と思われる。

  では、48年以降いつ亡くなったのであろうか。それは『晩香园梅诗』の王登瀛の跋文、『枕山楼课児诗话』の曽歴の跋文を通して推测できる。『晩香园梅诗』王登瀛の跋文は康煕60年(1721)に书かれたものであるが、このなかに「是以人亡简断、噫今昌其亦已逝矣(ここに人死亡し音信も途絶える。ああ昌其(陈元辅の字)もまた逝く)」と记されているから、康煕60年(1721)の时点で陈元辅が亡くなっていたことが知られる。よって彼の死去は康煕48年(1709)以降、康煕60年(1721)以前と推察される。

  曽歴の跋文には陈元辅について、「无奈久炙方殷、归期相迫、返棹沧波言旋。故国唯与有志者、远奉津梁于万里而已。未几传闻先生巫阳有招、玉楼成赋。痛哲人之已逝」と记されている。ここから曽歴が帰国后、ほどなくして陈元辅が亡くなった消息を得ていたことが分かる。曽歴が帰国したのは康煕48年6月30日である。曽歴に陈元辅死亡の消息をもたらしたのは、その后派遣された进贡船での帰国者らであったであろう。康煕49年、福州に行く进贡船が二只あった。この二只の船が帰国したのは康熙50年である。つまり、曽歴が陈元辅死亡の消息を得たのは康煕50年のことである。とすると、陈元辅が亡くなったのは、曽歴が帰国した康煕48年から进贡船が福州を出港した康煕50年の间だということになる。康煕48年(1709)であれば54歳、康煕49年(1710)であれば55歳、康煕50年(1711)であれば56歳にして、陈元辅はこの世を去ったということになる。

  终わりに

  陈元辅は清の顺治12年(1655)に福州で生まれ、読书人の家で成长している。先祖には科挙に合格して状元を得た人物もおり、年少の顷から文才に优れていた。9歳にして27歳の竺镜筠、15歳で林潭と知遇を得ている。康熙11年(1672)、17歳の时、科挙の郷试を受験して落第し、意気消沈した青年时代を过ごしている。康熙12年(1673)、呉山桂が乱を起こし、康熙15年(1676)に至って三藩の乱が全面的に勃発すると、福州府の科挙が中断され、康熙19年(1680)に至るまで陈元辅は科挙を受験する机会を失している。

  康熙15年(1676)、陈元辅は福州に驻屯する宁海将军喇哈达の幕に入り、彼の従军期が始まった。以降、康熙21年(1682)、宁海将军の満州军団が撤収して北京に戻るまで陈元辅は宁海将军の幕で务めていた。その后康熙22年(1684)の冬、陈元辅は湖北の游歴に発った。

  康熙23年(1684)の冬、福州に帰り、ちょうど北京への进贡任务を终えて福州に戻った程顺则と出会っている。陈元辅が程顺则との知遇を得たのは、康煕23年の冬に柔远駅で教师を务めていた竺镜筠を介してであった。陈元辅が琉球勤学の师匠となる契机を作ったのも竺镜筠であったと考えていい。その后、陈元辅と琉球人との本格的な交流が始まる。程顺则以外に、周新命、梁得声、梁得済などの琉球勤学人が陈元辅に师事している。以降、陈元辅が亡くなるまで琉球勤学人との交流は絶えることはなかった。

  陈元辅の诗集『枕山楼诗集』の初版は、康煕30年(1691)に福州で出版されているが、これは程顺则が帰国前に出资して出版したものである。そこに二人の交流の深さを见ることができよう。程顺则は帰国后、琉球王国を代表する儒学者となる人物である。勤学として柔远駅滞在中、陈元辅から大きな薫陶をうけたことはいうまでもない。陈元辅自身は科挙に失败し、挙人の资格を得ることなく、官吏として立身出世をすることはなかったが、康熙37年(1698)顷に候补县丞といった官职についていたことが确认できる。

  本稿では、陈元辅『枕山楼诗集』『枕山楼文集』『枕山楼课児诗话』、王登瀛『柔远駅草』『柳轩诗草』及び程顺则が编纂した『中山诗文集』などの文学资料を手がかりに陈元辅の人物像及びその生涯を描き出してみた。彼の著作は中国ではほとんど确认されていないが、日本においてその存在が知られ、彼の著作が四种で计二十一点の版本を确认できること、また彼は书家としても知られ、『妙迹図録·汉画部』に陈元辅の草书の书作が収録され、高い评価を受けていることにも注目したい。日本で知られるようになったのは、言うまでもなく程顺则をはじめとする福州でその门下生として学んだ琉球勤学人の功绩である。
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