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中国评论学术出版社 >> 文章内容

冲绳传统空手道之原点回归——以“唐手本义”为中心的考察

  一、精神修养としての空手

  现在、特に冲縄の空手界では、竞技スポーツとしての空手に限界を感じ、技术的な面のみならず、精神的な面、また空手修业の意义といった面で、その极意の修得に真剣に挑む人々が増え始めている。笔者は、そうした动きを「空手の原点回帰」と称したい。そうした精神性を重视する空手とは、「冲縄伝统空手」のことを指し、すなわち、空手が中国にルーツをもつ「唐手」と称されていた时代(戦前)に、空手の先駆者たちが目指していたものである。彼らは空手修得の意义を考える际、技术的な武术としての意义はもちろんのこと、他に精神修养としての意义を修得することが重要であると考えていた。本稿では、そうした冲縄空手の「原点回帰」について検讨する。特に近代空手の父と称され、本土に空手を绍介した船越义珍は『唐手拳法』『空手道教范』を着すなど、空手の奥义を极めた功绩は大きい。本稿では、そうした船越义珍の说く空手の本义(精神性)についても分析する。

  嘉手苅彻は、「冲縄空手の创造と展开」をテーマとした博士论文の中で、以下の3つの空手の特征を示している。

  近世琉球の徒手武芸、唐手の特征を见ると、3つの侧面の重なりを持つことが分かった。1つ目は武术としての杀伤性を持つこと、2つ目は教养としての武芸、3つ目は芸能としての役割で、それらが重なり合った全体像を持っていたと考えられる。

  嘉手苅は、武术としての役割と教养としての役割以外に、芸能としての役割も指摘している。嘉手苅の指摘は、1839年に御冠船踊り中秋の宴に「武术唐棒」の演武が行われていた史実を踏まえてのことであろうが、同様の指摘は、「<门外不出>の武术として限られた一部の人达によって行われていた“空手”は、学校生徒をはじめ、农村の人达にも浸透するようになり、地域の行事·学校の行事の演目としても登场することとなった」と、卢姜威の博士论文でもなされている。

  芸能としての空手については、别稿で论述することにし、本稿では嘉手苅が冲縄空手の特征の1つとして挙げた「教养としての武芸」、つまり武芸としての精神修养について考察を行う。近年、诸外国における空手入门者の増加は、主として护身术を修得することを目的とする场合が多い。その背景には、世界各地における犯罪件数の増加や治安の悪化がグローバル化の进展に伴い悬念されていることもあるだろう。しかし、日本国内においてはその治安の良さや警察への信頼などから、护身术としての必要性は海外ほど感じない。そのため护身术としてよりも、精绅修养として品性や人格を养うことを主な目的とする空手家も少なからずいる。特に空手の発祥地である冲縄では精绅修养としての侧面が非常に重视されている。冲縄で2006年~2007年に、カナダの研究者サマンサ·メイにより実施されたアンケートの结果がその事実を证明している。「空手道场に入门した目的は?」という质问に、66%の対象者は「精神的に强くなりたいと思った。」と答えている。また、日本本土で1981年8月~9月に実施された空手道指道者を対象にした调査の结果 においても、52.6%の対象者が指道の目标は「精神の锻錬」と答えている。

  最近海外においても、空手の精绅修养としての侧面に注目する人々が増えてきている。グローバル化の进展に伴い、个人がその支えとし得る思想そして人间性を见失いつつある。现代社会において、空手による精绅修养は、一つの人间教育の方向性を示唆しているようにも思える。

  外国の场合、ほとんどの入门者は最初にとにかく强くなりたいという気持ちで空手道场に入门する。初心者が望んでいる强さというのは、まず肉体的な面や技术的な面の强さである。その愿望は决して间违っていないが、しかし空手の技を取得する际に、それと同时に精神的な面でも强くならないといけないと、多くの冲縄の空手家は考えている。空手修行には2つの目标がある。その1つ目は、保身术(护身术)としての技法を修得であり、2つ目は心术(空手精神)の开拓および养成である。

  本稿では「空手の精神性」について、空手という武术に含まれている精神的な教え、心の持ち方、心身の锻え方を具体的に考察することにする。まず以下、空手の先駆者たちが弟子たちに教えていた空手のもつ精神性を、その座右の铭を通して検讨する。

  二、空手先駆者の座右の铭

  松村宗棍の座右の铭

  松村宗棍(宗昆)は、1809年に首里山川村で生まれた空手の达人であった。彼は、第二尚氏王统の17代尚灏王、18代尚育王、19代尚泰王の三代にわたって、御侧守役(要人警护职)を勤め、役职のかたわら、国王の武术指南役も务めたといわれる。彼は、以下の遗墨を残している。 

  人常敬恭 则心常光明也(人、常に敬恭なれば、则ち心は常に光明なり)

  现在、冲縄空手会馆の展示室に松村宗棍の遗墨(复制品)が展示されている。原文の「人常敬恭 则心常光明也」は、中国の儒学者朱子の问答録である「朱子语类」からの引用されたものである。松村は、文武両道、つまり武术と学问その両道に优れた武人として知られている。宫城笃正は、その著书『空手の歴史』の中で、松村宗棍の遗墨について、以下のように述べている。

  武士松村も文武両道に秀でた武人として知られ、ここに掲载する遗墨はまさにそのことを证明するにふさわしい好资料である。宗昆七十六歳のときに书いたもので、笔力や语句などからいかにも武人らしい作品である。  

  松村が残した遗墨では「敬恭」の重要性が强调されている。武道の修行において、 実力を养い自信を付けることによって人は强くなっていく。体力をつけることや技术を上达させることは、一つの修练であり、それと同时に心の修练も求められる。强くなれば强くなるほど、礼节と谦虚の精神も必要となってくる。肉体的な强さとのバランスを整えるために、敬恭の心を育てないといけないと、松村はいっているのである。松村は、この座右の铭を通して、人间が常に慎んで敬う心をもっていれば、その人の人生も常に光明に照らされるものとなると自らを戒めている。

  ② 喜屋武朝徳の座右の铭

  1870年、首里仪保村(现·那覇市首里仪保町)に生まれた喜屋武朝徳は以下のことを弟子たちに伝えている。

  长年修行して体得した空手の技が、生涯を通して无駄になれば、空手道修行の「目的」が 

  达せられたと心得よ!

  喜屋武朝徳は、空手の技を一生一度も使わずに生きることができたら、修行の目的を达成したことになる。つまり、空手の技を正しく取得し、そして空手の精神も正しく理解すれば、心が豊かになり、敌を引き寄せることもなく、一生戦わずしてすむと、と言っているのである。喜屋武の言叶の中では、「精神性」について直接触れてはいないが、その言叶の里には「平和の精神」が読み取れる。空手は戦うことを学ぶ武术であると同时に、无意味な喧哗をさける、そして戦いを防ぐ精神を养うものである。よって、真の空手の道を极めたいのであれば、その考え方を强く意识しながら修行するべきだと彼は谕している。一生戦わない、喧哗をしないということは理想であって、完璧に达成することができないにしても、その方向に向かって常に努力する平和を爱する心を育成することが大切だ、と彼は力说している。喜屋武の教えは孙子の「兵法」の「戦わずして胜つ」に通ずると共に、刚柔流の宗家の宫城长顺の「人に打たれず人打たず、事なきを基とするなり。」という座右の铭にも相通ずる。宫城は、喜屋武と同世代で、1888年に那覇市に生まれた刚柔流の开祖である。

  宫城长顺の座右の铭

  人に打たれず人打たず、事なきを基とするなり

  宫城もまた、空手家は喧哗や争い事を避けるように、心挂けるべきだという。これもまた空手の「平和の精神」を说いている。「事なきを基とするなり」とは、人间关系を円滑に行い、人に非难されないように、人に対して寛容になるように、穏やかな生活をおくらなければいけないという意味も含んでいる。空手家は、万事に争いのない生活を基本として、周りの人々と友好な关系を保つことに努めるべきであり、口论を含めて、决して争ってはならないといったことを谕している。

  ④ 本部朝基の座右の铭

  すべては自然であり、変化である。构えは心の中にあって、外にはない

  本部朝基は、実戦空手の达人であったといわれている。彼は自らの経験を通して、自然の成り行きとして周りは常に変化し続けるため、それに対して临机応変に対応できるように自らも常に柔和で自然体であらねばならないと述べている。「构えは心の中にあって、外にはない」というのは、空手家が持つべき正しい心构えを教示している。それは、身体的な外见上の构えではなく、心の内にある、泰然自若、柔和にして自在の心构えというべきものである。実践空手で锻えてきたからこそ、言える达観したことばである。

  ⑤ 松茂良兴作の座右の铭

  生半可は自灭である 仁、义、礼、智、信の五常をわきまえよ

  松茂良兴作は、那覇市泊出身の空手の达人である。松茂良は、空手を志す者は中途半端にいい加减に修行をするのは自灭のもとであると戒めている。そして、空手家は仁、义、礼、智、信の五つの徳を大切にして、修行に努めるべきだと述べている。仁とは深い思いやりの心、义とは利欲にとらわれない正义の心、礼とは礼节を知る心、智とは道理を知り正邪を见抜く智慧であり、信とは友情に厚く诚実であることである。仁、义、礼、智、信とは、孔子·孟子が守るべき人としての道、そして徳を说いた儒教の教えである「五常の徳」のことで、「五常」とも言われている。厳しい修行を通して、自分には厳しく、周囲の人々には礼节をもって寛容·寛大に、かつ邪悪を见抜く正义に基づいた深い思いやりの心を持つことが肝要だと说き、そうした人格的修养を松茂良は最も重视していた。

  ⑥ 安里安恒の座右の铭

  人の手足は剣と思え

  武器を持たない素人といえども、必死になればその手足は刃物と同様の威力を発挥することもある。まして、空手の修行者であれば、その手足は剣や刃物と変わらない凶器である。よって、素手での稽古といえども気を抜いてはならないし、自らの行动についても自分の手足は凶器であることを深く理解して、妄りに使わないよう戒めなければならない、と说いている。

  三、纟洲安恒の唐手心得十ヶ条

  近代冲縄空手は昭和20年代ごろまで「唐手」と称されていた。それはルーツが中国武术に由来することを示唆している。近代冲縄空手は、戦前学校教育の体育の中に取り入れられ、且つ军人教育の一环として军事教练でも采用されている。1908年に纟洲安恒が着した「唐手心得十ヶ条」の中でも、「唐手」の精神性が语られている。以下、少々冗长になるが、纟洲安恒の「唐手心得十ヶ条」を绍介する。

  唐手心得十ヶ条

  【原文】

  唐手は儒仏道より出候ものに非ず。往古、昭林流、昭霊流と云二派、支那より伝来たるもにして、両派各々长ずる所あて、其尽保存して润色を加ふ可らざるを要とす。仍而、心得の条々左记す。

  唐手は体育を养成する而己ならず、何れの时君亲の为めには身命をも不惜、义勇公に奉ずるの旨意にして、决して一人の敌と戦ふ旨意に非ず。就ては、万一盗贼又は乱法人に逢ふ时は、成丈け打ちはずしべし。盟て、拳足を以て人を伤ふ可らざるを要旨とすべき事。

  唐手は専一に筋骨を强し、体を铁石の如く凝坚め、又、手足を鎗锋に代用する目的とするものなれば、自然と勇武の気象を発挥せしむ。就ては、小学校时代より练习致させ候はば、他日兵士に充るの时、他の诸芸に応用するの便利を得て、前途军人社会の一助にも可相成と存候。最もウエルリントン侯がナポレオン一世に克、今日の戦胜は我国各学校の游戏场に于て胜てると云々。実に格言とも云ふ可き乎。

  唐手は急速には熟练致し难く、所谓、牛の歩の寄りうすくとも、终に千里の外に达すと云ふ格言の如く、毎日一、二时间位、精入り练习致し候はば、三、四年の间には、通常の人と骨格异り、唐手の藴奥を极める者、多数出来可致と存候事。

  唐手は拳足を要目とするものなれば、常に巻槁にて充分练习し、肩を下げ、肺を开き、强く力を取り、又、足も强く踏み付け丹田に気を沈て、练习すべき。最も度数も片手に一、二百回程も冲くべき事。

  唐手の立様は、腰を真直に立て、肩を下げ、力を取り、足に力を入り踏立て、丹田に気を沈め、上下引合する様に凝坚もるを要とすべき事。

  唐手表芸は数多く练习し、一々手数の旨意を闻き届け、是は如何なる场合に用ふべきかを确定して练习すべし。且、入受はずし、取手の法有レ之。是又口传多し。

  唐手表芸は、是れは体を养ふに适当するか、又、用を养ふに适当するかを予て确定して练习すべき事。

  唐手练习の时は戦场に出る気势にて、目をいからし、肩を下げ、体を坚め、又、受けたり突きたりする时も现実に敌手を受け、又、敌に突当る気势の见へる様に常々练习すれば、自然と戦场に其妙、相现はるものになり、克々注意すべき事。

  唐手の练习は、体力不相応に余り力を取过しければ、上部に気あがりて面をあかみ、又、眼を赤み、身体の害に成るものなれば、克々注意すべき事。

  唐手熟练の人は、往古より多寿なるもの多し。其原因を寻るに、筋骨を発达せしめ、消化器を助け、血液循环を好くし、多寿なる者多し。就ては、自今以后、唐手は体育の土台として小学校时代より学课に编入り広く练习致させ候はば、追々致二熟练一一人にて十人胜つ辈も沢山可レ致二出来一と存候事。

  右十ヶ条の旨意を以て、师范中学校に于て练习致させ、前途师范を卒业各地方学校へ教鞭を采るの际には、细敷御示论各地方小学校に于て精密教授致させ候はば、十年以内には全国一般へ流布致し、本県人民の为而己ならず、军人社会の一助にも相成可申哉と笔记して备二高覧一候也。

  明治四十一年戊申十月 纟洲安恒

  【意訳】

  唐手は儒教や仏教に由来するものではなく、その昔、昭林流と昭霊流という二つの流派が中国から伝わったものである。両派はそれぞれ特性があるので、そのまま保存して润色を加えてはならない。下记の条文は唐手修练の心得である。

  唐手は体育の养成を果たすだけでなく、何时の日か国や亲のために身命を赌して尽くす义勇の精神を培うものである。したがって、単に一人の敌と戦うということではない。たとえ盗人や暴汉に出会うことがあっても、できるだけ戦いを避さけて、锻えた拳や足でもって伤つけないよう心得るべきである。

  唐手はもっぱら锻えることで筋骨を强韧にし、身体を铁や石のように固めることができ、手や足は枪や鉾に代わるような武器となる。その结果、自然に勇武の気性を発挥するようになる。それ故、小学校时代より唐手の练习をさせていけば、将来、军人になった时に他の诸芸(武芸)の练习にも适用ができ军人社会にも贡献できる。かつて、ウェーリントン候がナポレオン一世に胜利した时に、「今日の戦胜は我が国の各学校が游技场(竞技场)で(身体を锻えていたから)胜ったのだ。」と云った。実にそのとおりであり格言にしたい言叶である。

  唐手は急速に熟达するのは难しい。よく「牛は歩みがのろいが歩みつづけているうちに千里を越えて进む」と言われる。唐手も毎日一、二时间ほど精魂をこめて练习すれば、三、四年后には通常の人と骨格が変わってくるばかりか、唐手の奥义を穷める者が数多く现れてくるだろう。

  唐手は拳や足を锻えるのが重要なので常に巻き槁で充分な练习をしなければならない。その际、両肩を下げ、胸を张り、体を引き缔め、さらに足を强く踏みしめ丹田に気を集中して练习するとよい。突きの练习は片手一、二百回ほどおこなうとよい。

  唐手の立ち方は腰を真っすぐに立て、両肩を下げ、体を缔め足は力を入れて踏み、丹田に気を集中して立つ。上体と下体は互いに引き合うように固めるのが肝要である。

  唐手の表芸(型)は数多く练习し、型の中にある一つ一つの技动作の意味を理解し、それをどのような场合に用いるかを确かめながら练习すべきである。入受外し(入り身技)や取手の法(取り手技)は口伝で教わるものである。

  唐手の表芸(型)は身体强化(体錬)を目的とするものか、応用実践(技练)を目的とするものか确定して练习すべきである。

  唐手の练习の时は、あたかも戦场に出挂けるような意気込みで、目をかっと见开き体を坚める。受けたり突いたりする时も、现実に目前の敌と攻防しているかのような迫力をもって练习するとよい。その成果は、実际の戦场に置かれた时に自然に表れるものである。そのことを肝に铭じたい。

  唐手の练习は、己の体力不相応に力を入れて力みすぎると上気し、目も充血してくる。これは体を损なうことなのでよくよく注意すべきことである。

  唐手を熟达した人には、昔から长寿が多いといわれている。要因を探ってみると、唐手の稽古は筋骨の発达を促し、消化器の働きを助け、血液の循环もよくするからである。この観点から、今より后は、唐手は体育の土台として小学校时代から学课として取り入れて広く多くの者に练习させたい。そうすれば、ゆくゆくは一人で十人と胜负のできる熟达の者が数多くあらわれることだろう。

  この十个条の意図にしたがって、师范学校や中学校において唐手の教育を行えば、师范学校を卒业して将来各地方学校で教鞭をとる际には唐手の指道ができるようになる。また、各地方の小学校においても丁宁且つ规律正しく指道していけば、十年以内に全国へ伝播していく。それは本県民にとっても军人社会にとっても有意义なことである。その由を记して高覧に供したい。

  明治41年戊申十月 纟洲安恒

  纟洲は上记の「唐手心得十ヶ条」において、「唐手はもっぱら锻えることで筋骨を强韧にし、身体を铁や石のように固めることができ、手や足は枪や鉾に代わるような武器となる。その结果、自然に勇武の気性を発挥するようになる」と语り、また「たとえ盗人や暴汉に出会うことがあってもできるだけ戦いを避さけて、锻えた拳や足でもって伤つけないよう心得るべきである」と说いている。纟洲は唐手の存在を世に知らしめた启発的な人物である。当时は、唐手师范の多くは纟洲が改変した型の几つかしか知らなかった。そこで纟洲は、一般の学校师范にも唐手が教えられるように创意工夫した新しい型を开発している。ピンアン(平安)の五つの型やパッサイ(抜塞)小、クーサンクー(公相君)小などがその例といわれている。

  石田肇は、冲縄空手道における纟洲安恒の役割について、次のように述べている。

  第一カ条の前段でいう「唐手は体育を养成する而己ならず何れの时君亲の为めには身命をも不惜义勇公に奉ずるの旨意」であると、明确にそのよって立つ大义が述べられている。それ故にこそ、空手道は「决して一人の敌と戦ふ旨意に非ず」という、自己自身のための私闘あるいは単なる闘争の具·手段としての意図が厳しく否定されているのである。そしてこれに続く后段の例示的表现として「万一盗贼又は乱法人に逢ふ时は成丈け打はずすべし盟て拳足を以て人を伤ふ可らざるを要旨とすべき事」という伦理観が道き出されているものと解するべきであろう。

  四、空手の本义

  空手の精神性は各道场の道场训にも表れる。以下、そうした道场训を绍介し、その意义を検讨する。

  ①空手は礼に始まり、礼に终わる

  松涛馆の道场训:空手道は礼に始まり礼に终る事を忘れるな

  刚柔流の道场训:谦虚にして礼仪を重んぜよ

  公益社団法人日本空手协会の道场训:礼仪を重んずること

  冲縄刘卫流龙凤会の道场训:礼仪を尊べ

  顺天会の道场训:礼仪を尊べ

  空手道においては、なによりも礼仪が重んじられている。従って、稽古前と稽古后、道场を出入りする时に必ず礼に始まり、礼に终わるように指道される。大会に出场する际、 试合や演武を始める前、相手に向かって礼をし、「お愿いします」といい、相手に敬意を払う。そして终わった后にも、礼をし、当然ながら「ありがとうございました。」と言わなければならない。一般社会においても、例えば会社や学校など、生活するすべての场所で、空手の修行者に対して、こうした礼节を重んじることを求める。

  「礼」は仁を形にしたものであって、つまり、人に対する思いやりの表れである。空手はどこまでも礼を重んじる。従って、空手の指道者はどんな人に対しても礼を尽くして、常に谦虚に振る舞う行动しなければならず、常に相手(他人)を尊重すると共に、自分自身に対しては、常に厳しく戒めるよう心挂けることを求める。「礼」について、泉贤司は次のように述べている。

  礼とは、当然他人の気持ちを思いやる心の表れであり、又、物事の道理を尊重することであり、それゆえ社会的地位に対して相応の敬意を払うことを意味する。

  また、新渡戸稲造は『武士道』の中で、「礼」を、「爱」と结びつけて、次のように述べている。

  礼の最高の形态は、ほとんど爱に接近する。吾人は敬虔なる心をもって、礼は寛容にして慈悲あり、礼は妬まず、礼は夸らず、骄らず、无礼を行なわず、己の利を求めず、愤らず、人の悪を思わずというるであろう。

  「礼仪」とは人间关系や社会の秩序を保つために守るべき行动様式で相手に敬意を表す、  感谢の気持ちを伝える作法とされている。何事に対しても礼仪は重要で、「礼」によって相手を敬うことにより、人间关系をスムーズにして社会生活をより良いものとする。このような礼节を大切にする文化や习惯は欧米にはない。礼节は社会において、良き人间关系を形成する。空手は修行を通して、そうした礼节の习得を强く求め、社会の一员としての人格形成、育成をも目指している。

  ② 空手に先手なし

  松涛馆の道场训:空手に先手なし

  松涛馆空手の始祖である船越义珍の「空手に先手なし」という言叶は、全世界の空手爱好家にとって、おそらく最もよく知られ、最も大事にされている空手のモットーであろう。一般的には、「先手」とは、攻撃のことを指している。従って、「先手なし」とは、空手家は自ら相手を攻撃してはいけない、つまり争いを起こしてはいけないという意味である。空手家は、口论を含めて、决して暴力的な振る舞いをしてはならないという意味に取られている。実践的な観点から见れば、これは空手の戦い方·対応をよく表している言叶でもある。実戦の场において、いざという时に先ず相手の攻撃を待ち、その攻撃を受けてから、もしくは避けてから、反撃の技を出すべきだという教えでもあり、自己防卫につながる武术的発想でもある。空手は自己防卫のための反撃を否定していない。

  甲、「空手に先手なし」の船越义珍の教え

  船越义珍自身は、「空手に先手なし」ついて、次のように解说している。

  【原文】

  唐手に先手なし

  武は字义の上から见ても、二人干戈を交へたるを中に这入って止めると云う意义で        あるから「唐手」も武の一部たる以上は、能く其意味を谅解して、徒に手を出すことがあってはならぬ。

  靑年の生命は元气である、元气は武に依って鼓吹される、元气溢れて善となり、叉时に恶ともなる「唐手」も善用すれば身を护り弱者を保护するが恶用すれば风纪を乱し人道にも逆う。

  武は仁义の及ばざる所に余仪なくさせらるもので、乱りに手を出す时は人にも欺かれ、   蛮勇とも诽らる、兎角血气盛りは手が先になり过ぎるから愼しまねばならぬ。威あって猛からず、武もこゝまで进まなくてはならぬ、乱りに猛々しく人を惊かして喜ぶやうでは駄目だ、圣人は大愚の如く、虚势を张るまでは学者も武士も自分の未熟を证す。

  进まざるは退くなり、少しく型を觉え仅に意味を解し、滞りなく手足が使へれば、最早天狗になり济まし、自分免许の口看板を提げて、天下に敌なしと慢心する退步だ。

  一寸の虫にも五分の魂のある世の中、进めば进む程口を愼まないと四方に敌を控へる、昔から高き树に风は当る、けれども柳は能く风を受け流す、谨愼と谦让は「唐手」の修业者の最大美德。

  【现代日本语】

  唐手に先手なし

  武の字の意味を文字の成り立ちから见ると、二人干戈を交えている中に分け入って仲裁に入って争いを止めるという字义がある。「空手」も武道の一部である以上、その意味をよく理解して、いたずらに手を出すことがあってはならない。

  青年の生命は元气である、元气は武道によって鼓吹される、元气溢れて善となり、また时に悪となる。「空手」も善用すれば身を护り弱者を保护するが、悪用すれば风纪を乱して人道にも外れる。

  武道は思いやりや正义の通じない状况で、仕方なくもちいざるを得なくなるものであって、 みだりに手を出す时は人にもあざむかれ、蛮勇とも非难される、とかく血気が盛りの时期には、手が先になり过ぎるから慎しまなければならない。威厳を保ちながら、狞猛であってはならない。このレベルまでは精进して到达しなければならない。みだりに猛々しく振る舞い、人を惊かして、喜ぶようではだめだ。圣人は世间の人から见れば、最も头の钝い愚か者のように见えるものだ。伟そうに见せようとして虚势を张るようでは、学者も武士も自分の未熟さを证明しているようなものだ。

  前に进まないのは、后退しているのだ。型を少しだけ覚え、ほんの少し意味を理解し、手足を滑らかに使えるようになったぐらいで、もはや天狗になってしまい、自分が一番すぐれていると自ら喧伝し、「天下に敌なし」と慢心してしまうというのが后退なのだ。

  「一寸の虫にも五分の魂」ということわざにあるように、どんな相手でも軽んじて甘くみてはならないのが世の中である。前に进めば进むほど、口を慎まないと、みだりに周囲に敌をつくることになる。昔から高い树には风が当たる、けれども柔らかくしなやかな柳はよく风を受け流す。空手の修业者にとって、言行を慎むこととへりくだることは最大の美徳である。

  船越は、こうした「空手に先手なし」についての解说を通して、空手における精绅修行がいかに大事かということを力说している。船越が、いかに「技术より心术」といった、心の构え方に重心を置いていたかが分かる。

  乙、空手の利害について

  船越はまた「空手の利害」について次のように述べている。

  【原文】

  空手は身に寸铁をも带びずして、一拳一蹴立どころに敌を倒す武术で、其の攻撃力の猛烈な事は既に世人の知悉する通りである。故にこれを善用すればこれほど重宝な、又これほど有利な武术はないが、万々一にもこれを恶用すると、これ位危险な、これ位有害な武术はない。

  【现代日本语】

  空手は身に寸铁を帯びずして、一拳一蹴、立どころに敌を倒す武术である。その攻撃力の猛烈な事は、すでに世人の知悉する通りである。故に、これを善用すればこれほど重宝な、又、これほど有利な武术はないが、万々一にもこれを悪用すると、これ位危険な、これ位有害な武术はない。

  空手は、武术として、その手足による攻撃力はあまりにも猛烈であり、そのために空手の使用に十分に注意をしなければならない。空手を善用すれば、自分自身や家族を护るため、有利な武术(护身术)になる。しかし、空手を悪用すれば、技は暴力となり、非常に危険で、有害な武术になる。「空手に先手なし」の意义は、そこにある。

  丙、「真の空手」で说く空手の精神性

  1922年に、船越义珍は东京で空手を本格的に绍介し、そして本土において空手普及に努めている。著书『空手道教范』(大仓广文堂、1935年5月)の中で、船越は「真の空手」について以下のように述べている。

  【原文】

  眞の空手

  眞の空手、即ち「空手道」なるものは、内には俯仰天地に耻ぢざる心を养ひ、外には猛兽をも习茯せしめる威力がなければならぬ。心と技と内外兼ね备つて始めて完全なる「空手道」と言へるのである。

  空手道を修める者は、第一に礼仪を重んじなければならぬ。礼仪を失つた空手は既に空手の精神を失つてゐる。礼仪は单に稽古中のみではなく、行住坐卧、如何なる场合でも重んじなければならない。

  空手道を修める者は、自己を虚しくして敎へを受けねばならぬ。我意增长の慢心者は空手道の门をすら潜る事が出来ぬであらう。知らざるものは知らずとし、他人の批评に耳を倾け、常によく自省するの心挂がなければならない。

  空手道を修める者は、常に谦让の心と温和の态度とを忘れてはならぬ。腕に觉えがあると、兎角、威张って见たくなるのは小人の常であるが、世に「武术家ぶる武术家」ほど片腹痛いものはない。かゝる似而非武术家が多い为に世间の人から「武术家は乱暴者」と思はれ、眞の武术家が非常な迷惑を蒙る事がある。空手修业者はこの点特に注意しなければいけない。

  空手道を修める者は、刚毅勇武の风を养はねばならぬ。刚毅勇武の风とは决して强さうな恰好をする意味ではない。又技さへ锻へればよいといふのではない。形よりも心に就いて言ふのである。一旦事ある场合、自ら正しいと信じたら千万人の反对をも押切り、如何なる困难でも辞せぬと云ふ意气がなければいけない。优柔不断は空手道修业者の最も耻づべき事である。

  【现代日本语】

  真の空手

  真の空手、即ち「空手道」は、内には俯仰天地に耻じない心を养い、外には猛獣をも屈従せしめる威力がなければならない。即ち、心と技と内外兼ね备って始めて完全なる「空手道」と言えるのである。

  「空手道」を修める者は、第一に礼仪を重んじなければならない。礼仪を失った空手は、すでに空手の精神を失っていることになる。礼仪は単に稽古中のみでなく、行住坐卧に、どのような场合でも重んじなければならない。

  「空手道」を修める者は、自己を虚しくして教えを受けなければならない。我意増长の慢心者は「空手道」の门すら潜る事が出来ないであろう。知らざるものは知らずとし、他人の批评に耳を倾け、常によく自省するように心挂けなければならない。

  「空手道」を修める者は、常に谦让の心と温和の态度とを忘れてはならない。腕に多少の覚えがあると、とかく、威张ってみたくなるのは小人の常でもあるが、世に「武术家ぶる武术家」ほど片腹痛いものはない。えせ武术家が多い为に世间の人から「武术家は乱暴者」だと思われ、真の武术家が非常な迷惑を蒙ることが多い。空手修业者はこの点を特に注意しなければいけない。

  「空手道」を修める者は、刚毅勇武の风を养わねばならない。刚毅勇武の风とは、决して强そうな恰好をする意味ではない。又、技さえ锻えればよいというものでもない。形よりも心についていうのである。一旦事ある场合、自ら正しいと信じたら千万人の反対をも押し切り、如何なる塁でも辞せぬという意気がなければいけない。优柔不断は空手道修业者の最も耻ずべき事である。

  船越によれば、完全なる「空手道」とは、心と技と内外兼ね备った状态を意味する。技とは、技术のこと、心とは心术、即ち精神性のことを意味する。船越は、「技术より心术」と、松涛二十训でも取り上げている。

  空手の精神性とは、まず礼节を重んじる、つまり礼仪を守ること、マナー正しい谦虚な心を养うことである。船越は、礼仪を失った空手は、すでに空手の精神を失っていることになるという。船越は彻底して礼仪を重视している。そして自己を虚しくする(心を质檏·淳檏な状态にする)ことを说いている。空手家が、内面的に「中心空虚」な精神状态にならない限り、师匠の教えや他人の批判を素直に受け入れることができない。「我意、増长の慢心者」は空手道の门に入れないだろうと、厳しく谕す。ここでいう我意とは、我欲(例えば名誉欲心、権限欲心、金銭欲心など)を指している。増长の慢心者とは、傲慢な态度を取る人のことを指ししている。知らないことは、知ったかぶりをしないで、人から批判を受けた时に、素直にそれに耳を向けて、そして常によく自省するように心挂けないといけない。确かに、傲慢な性格の人には、それが难しいだろう。人间は空手の修行を通して、自己を虚しくしなければならないと说く。

  船越は空手家の人格形成において、「空手道を修める者は、常に谦让の心と温和の态度とを忘れてはならない」として、「谦虚さ」と「优しさ」を诉えている。腕に多少の覚えがある(空手の技术を多少身につける)と、威张ってみたくなる者もいるが、それは小人(素人)の证であるという。船越は「武术家ぶる武术家」のことを「片腹痛い」という。えせ武术家が多いために世间の人から「武术家は乱暴者」だと思われている。それは真の武术家にとって大変な迷惑な话であると船越は言っている。

  「真の空手」で空手の精神性を强调する船越は、「刚毅勇武」を养う必要性も强调している。空手を学ぶ者には、刚毅、勇気、闘争心を养う必要がある。ここでいう「闘争心」とは、争う·竞い合うという意味ではなく、正义を守るための、勇ましい心を养うことを意味する。そして、一旦事ある场合、自ら正しいと信じた行动を、千万人の反対でも押し切り、如何なる塁でも辞せぬという意気がなければいけないという。「刚毅勇武」について、船越は、空手は技のみを锻えるものではないとし、「形よりも心についてのものである」と言っている。それは「构えは心の中であって、外にはない。」と语る本部朝基の座右の铭にも繋がる。

  船越の「真の空手」について、泉贤司は次のように述べている。

  「真の空手道」とは、心、精神の问题であろう。すなわち、(一)人格完成につとめること。真の空手道を学ぶものの一切の基本を最初に掲げられているのであるが、その为には次の四个条を、必ず守り、学ばなければならないということであろう。以下、顺不同ではあるが、これを 『空手道教范』に比定すると、(二)礼仪を重んずること。(三)努力の精神を养うこと。(四)血気の勇を戒むること。(五)诚の道を守ること。に相当するであろう。この五个条の眼目こそが富名腰精神であり、空手道の精神であると言えよう。

  丁、船越の「精神修养として」の空手について

  【原文】

  精神修养として

  勇气·礼节·廉耻·谦让·克已などの美德を养ひ得るのは独り「空手」に限らず、如何なる武术でも共の真髓を悟れば同じ事である。たゝ多くの武术は体质虚弱な者や、体格贫弱な者や、或は元气の乏しい者には、最初から余りに动作が激烈なため、气力阻丧して中途に于て挫折してしまふのが普通である。稀に体躯の贫弱なるが为に却つて发奋して猛烈な稽古をする者もあるが、体力が气力に伴なはぬ为に、或は负伤したり、或は病气を引き起したりして思はぬ失败を演ずる事が往々にしてある。故に从来の武术は身体の弱い者や气力の无い者では上达出来ないものと谛めてゐた人々が多かったのである。然しながら、勇武の气象を养ひ刚强の体躯を造るべき武术の练习は、かゝる虚弱·无气力の人にとってこそ却つて重要である。この点に于て空手は老幼·男女谁にも出来る武术で、而も场所·设备·时间を要しないので、容易に继续する事が出来るから、虚弱无气力な人も不知不识の中に刚健な身体を作り、勇武の气象を养ひ得るのである。この继续し易いといふ事が精神修养の上にも伟大な効果を赍すので、半年や一年で废してしまふ样では、如何なる武术を学んでも、到底、精神修养とするに足りない。少くも精神修养としては十年、二十年、出来得べくんば一生涯、之を习ひ、之に亲しみ、技と共に勇气·礼节·廉耻·谦让·克己の美德を磨いて身の光りとしなければならぬ。この继续し易いといふ点に于ても空手は精神修养に资する诸武术中、最も适当なものでないかと思惟する。

  【现代日本语】

  精神修养として

  勇気·礼节·廉耻·谦譲·克己などの美德を养い得るのは「空手」に限らず、如何なる武术でも共の真髓を悟れば同じことである。ただ多くの武术は体质虚弱な者や、体格贫弱な者や、或は元气の乏しい者には、最初からあまりに动作が激烈なため、气力阻丧して中途において挫折してしまうのが普通である。まれに体躯の贫弱なるがために却って兴奋して猛烈な稽古をする者もあるが、体力が气力に伴なわないために、或は负伤したり、或は病気を引き起したりして、思わぬ失败を演ずることが时々ある。故に从来の武术は身体の弱い者や气力の无い者では上达出来ないものと谛めていた人々が多かったのである。しかしながら、勇武の气象を养い刚强の体躯を造るべき武术の练习は、かかる虚弱·无气力の人にとってこそ却って重要である。空手は老幼·男女谁にも出来る武术で、しかも场所·设备·时间を要しないので、容易に継続する事が出来る。虚弱无气力な人も、不知不识の中に刚健な身体を作り、勇武の气象を养い得るのである。この継続し易いという点が、精神修养の上にも伟大な効果をもたらすので、半年や一年で廃してしまうようでは、如何なる武术を学んでも、到底、精神修养とするに足らない。少なくとも精神修养としては十年、二十年、出来れば一生涯、これを习い、これに亲しみ、技と共に勇気·礼节·廉耻·谦譲·克己の美德を磨いて身の光りとしなければならない。この継続し易いという点においても空手は精神修养に资する诸武术中、最も适当なものでないかと思惟する。

  船越は、空手は少なくとも十年から二十年、出来れば一生涯の修行として継続していけば、精绅修养として効果をもたらすことになると力说する。空手を谛める人の中に体力が持たない、或いは无理をして怪我をしてしまった人々もいる。しかし、体力が无い人や贫弱な体躯の人こそ、稽古を続けていけば、必ず强くなっていき、そして、気づかないうちに、刚健な身体を作り、勇武の气象を养い、精绅的にも强くなると说く。

  勇気·礼节·廉耻·谦譲·克己の美徳を养い得るのは「空手」のみに限らないとしながらも、武术(武道)の中で、精绅修养に资するものとして最も适当なのは空手だと思惟している。船越の「松涛二十训」の中でも、船越は「空手道」を修める者は、「技术より心术」、即ち精绅修养に集中すべきであると述べている。船越は一贯して、空手家は空手の武术(技术)はもちろんのこと、それと同时に心术、すなわち空手の精神を身につけなければならないと力说している。

  空手の达人の座右の铭や道场训において、空手の精神性が重视されていることは上述したが、船越もまたそれを强く诉えている。

  现在、多くの冲縄伝统空手の道场で「修行者は、そうした先人の言叶や道场训を深く心に留め、その意味を忘れずに日々稽古を行わなければならない」と谕している。空手は、生涯の修行であり、精神修养も一生続くものである。空手のみならず、武道として修行するもの、すなわち柔道、剣道、居合道、合気道、弓道なども同様である。心术を磨くこととは、精神文化として武道を学ぶ、それを追求し、身につけることを意味する。高宫城繁は「精神文化としての武道」の记事で、次のように述べている。

  近世(江戸时代)になると、武の世界では武技そのものの価値を大切なものと考えながらも、それを磨くことによって付加的に创出される精神価値をもっと大事なものだと人々は考えるようになった。すなわち技法よりも心法を重视するようになった。精神の働き、心の営みなどが技の在り方を决定する重要なものだと考えられ、それが、宫本武蔵の『五轮书』や柳生宗矩の『兵法家伝书 』となって着されたのである。心の在り方を问うという命题は文化そのものを问うということである。武术が文化としての资质をおびるとき、それは、武道へと升华する。そして人の在り方、人の歩むべき道を究明するいわゆる求道の具となるわけである。

  武术(技术)そのものにのみ価値を求めるのではなく、精神価値(心术)の奥义にも目を向けなければならいとする高宫城の视点は船越の教えに相通ずる。空手家の精神修行は、肉体的や技术的な锻錬と同时に行われる。そのために、まず日々の厳しい稽古が必要となる。道场で流された汗の量、または自分が耐えてきた精神的な辛さ、体の痛み、精神修行はその中から生み出されてくる。だから、日々の稽古で重ねた锻錬は、最终的に心を锻えることに繋がる。そして、心を锻えることは、精神力向上にも繋がるというのである。精神锻錬の修行について、高宫城はさらに、次のように述べている。

  武术修行者は厳しい錬磨に耐えることによって、根性が练られ、度胸が养われ、いついかなるときでも普段と変わらぬ心境で物事に対处できるような精神、すなわち、平常心がつちかわれるのである。このことを上泉伊势守信纲は「火炎の中に飞入、盘石の下に敷かれても灭せぬ心」といい、武蔵は「巌の心」といい、沢庵は「不动心」といい、针ヶ谷夕云は「无住心」といった。こういう表现にみられる心境こそ、武术修行者が技法练成の过程で究极的に创り出す精神である。武道の修行における精神価値とはそういうものである。《「技」+「心」》の构図があってはじめて武术は武道となり、武芸となる。「技」と「心」は不即不离の状态という弱い关系にあるのではなく、相互补完的で不可欠の强い关系にある。技と心が重なりあって、その相乗効果として创り出された精神価値が文化であり、その资质を规定しているのが道の思想である。 武道が精神文化としての机能を発挥するのは修行者の日々の生活の场においてである。すなわち、武を身に修めた人间は日常の生活実践の场で强く自己を统御し、决して非社会的行动をとることはしない。そういう自己统御能力とか自己规制の精神を武道は授けてくれる。人间としての道を踏みはずさない。そういう道の思想を武道は内に秘める。人间としての道を决して误らないという精神こそ文化としての価値なのだ。

  现代の空手界は、「伝统空手派」と「スポーツ空手派」に二极化しているといってもいいだろう。それは、「武术」と「スポーツ」が根本的に违うことに原因がある。特に、21世纪に入り、空手の道场主、指道者や引退した选手たちの高齢化が进む中、彼らは空手の「今のカタチ」に疑问を持ちはじめている。つまり「自分たちが空手を続けていく意义は何なのか」という疑问である。空手は、徐々に竞技スポーツ化されていく倾向にあるが、自分たちはそれを认めるべきか、それとも反対するべきか、というような疑问が生まれてきているのである。今、そうした问题を真剣に考えている空手家が増えつつある。すなわち、生涯の修行という観点からみた空手の目的は、いったい何かという疑问及び课题が空手家たちに问われているのである。

    空手の稽古を数十年间も続けていけば、このような疑问が出てくるのは当然のことかもしれない。なぜなら、修行中に「自分が何のために空手をするのか」と何度も自问自答しなければならないからである。空手を一生続けるとなると、スポーツとしての成果に求めるのではなく、「术」(英语:art)を磨き、その中に存在する精神性を见出すべきだという结论に至る者が少なくない。ここでいう「术」を磨くということは、まず空手を武术として认识し、その修行の中から、その本质、つまり精神性を见出す契机を作り出すということである。そうした武术としての空手とは、言い换えれば「伝统空手」のことを指し、すなわち、冲縄で诞生し、戦前の空手の先駆者たちが目指していたものである。

  现在、特に冲縄の空手界では、スポーツとしての空手に限界を感じ、技术的な面以外に精神的な面、また空手修业の意义といった面で、その极意の修得に真剣に挑む人々が増え始めている。笔者は、そうした动きを「空手の原点回帰」と称した。最近、空手のメッカである冲縄までわざわざ足を运び、空手の修行を目的としてやって来る海外からの空手爱好家も増えてきている。彼らは、现代の空手の达人たちの指道を受けながら、伝统として伝えられた技术を学び、そこから冲縄の先人达が残した空手の精神を见出し、空手に关する知识を深めている。そして、冲縄で得た経験と「空手の精神」を母国に持ち帰って、生徒たちに伝えている。

  今ほど、伝统空手に対する再认识が求められている时代はないだろう。本稿では、そうした空手の精神性について検讨した。
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